寺田屋からの逃走ルート1 寺田屋

坂本龍馬と三吉慎蔵が逃走した経路を調べている。
まずは出発点の寺田屋のその敷地について。 鳥羽伏見の戦いで焼失した寺田屋について、その敷地が実際に記録にあらわれるのは明治になってからなので、これから調べてみる。

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江崎権兵衛が明治26年5月27日に購入した旧寺田屋があったと思われる土地は、今の町名で南浜町262番地。 江崎は、この地所以外にも、明治27年6月1日に南浜町263番地と車町282番地(のち大正8年に車町281番地と合併)、明治27年11月26日に車町281番地(のち昭和4年に分筆)を、相次いで購入している。 南浜町262番地には、その入手目的でもあった、明治27年の33回忌に「薩藩九烈士遺蹟表」が建立され、息子・江崎権一の所有を経て、大正6年に伏見町に所有権が移転されている。

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南浜町263番地は、明治38年5月1日に七代目寺田伊助に所有権が移転している。

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この時同時に、車町281番地と車町282番地の地所も伊助の所有に帰している。

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この4つの番地の地所は繋がっており、ちょうど、現寺田屋の南の南浜町の通りと、北側の車町の通りとに挟まれて、北側は狭いが南北にほぼ長方形をしている.。

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今回はこの土地全てが旧寺田屋の敷地と仮定しておこう。
七代目寺田伊助は、「薩藩九烈士遺蹟表」の建つ南浜町262番地の敷地こそ入手できなかったが、明治38年に所有した3つの地番の土地は意外と広い。 但し、伊助の目的とする宿屋の建物としては、大きさから南浜の水路側の建物を使用せざるを得なかったようだ。
「薩藩九烈士遺蹟表」に刻まれた「建銅表于寺田屋遺址」の文言からすると、この「薩藩九烈士遺蹟表」の銅の碑を寺田屋の遺址に建てたとあり、旧寺田屋の在り場所が問題となるが、旧寺田屋が南浜町262、263番地に在ったとすれば、とりあえず文言との矛盾はない。 伊助は、寺田屋の建物と「薩藩九烈士遺蹟表」との一線から北側の車町の通りまでの敷地は、自宅と貸家などに利用していたのかもしれない。 今現在は、この地は、冨信株式会社(十四代寺田屋伊助の表札が架かる)、Yかわ氏、Sまた氏の住居(出入り口は南浜側)があり、また車町通り側ではレストラン大進亭の横の駐車場となっている。

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寺田屋からの逃走の際に、 龍馬は書簡で、「家の後ろなる屋そいをくぐり、後ろの家の雨戸を打ち破り・・・・・、其家の立具も何も引きはなし後の町に出んと心がけしに、その家随分と丈夫成る家にて中々破れ兼ねたり。両人して刀を以てさんざんに切破り、足にて踏破りなどして町に出て見礼バ」と書く。
慎蔵の日記には、「裏口の物置を切り抜け両家程の戸締りを切り破り挨拶して小路に遁れ出て」とある。 松村巌「坂本龍馬」によれば、 「屋後より身を躍らして地に下る。板塀ありて隣家と相界す。其隣家は寺田屋の貸家にして。医師藤田某の居る所と為し。」とある。
寺田屋の建物は北側にどこまで続いていたかは分からないが、「薩藩九烈士遺蹟表」を越えて建っていたとすると、医師藤田某の居た貸屋や他の家は、このレストランや駐車場の近くにあったに違いない。 龍馬と慎蔵は、町に出て一路、村上町の材木商の近江屋三郎兵衛がもつ材木納屋へと逃げることになる。

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

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