寺田屋からの逃走ルート4

寺田屋事件での材木納屋から薩摩藩伏見屋敷までの逃走ルートを調べている。

動けない龍馬は材木納屋に隠れ、三吉慎蔵が単独で伏見屋敷を目指した。

 

ところで、慎蔵は伏見市中の地理に明るく、伏見屋敷の場所を正確に知っていたのだろうか。

 

伏見は、京と大坂との上り下りの淀川の起点に位置する交通の要衝であり、そのため東海道57次の江戸から数えて54番目の宿場町として栄え、東は京町通り、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西1km、南北4.5kmの広さのある人口2万4千人を抱えた大都市であった。

慎蔵にとっての伏見は、慶応2年1月の寺田屋事件までに、長府から江戸への往復で4度、長府から京都への往復で4度の、計8回通過している場所になる。

 

伏見通過は、時系列には以下の通り。

安政5年2月頃、江戸へ藩主参勤の御供として通過 (伏見宿泊は不明)

安政6年5月頃、江戸より帰国御供として通過 (宿泊不明)

③万延元年閏3月頃、江戸へ参勤御供の途次通過 (宿泊不明)

文久元年3月、帰国の途次伊勢神宮に藩主の代参をして通過 (宿泊不明)

文久3年2月21日、上京の途次通過 (宿泊はなし、宿泊は大徳寺

文久3年2月28日、帰国の途次、藩主の御供で騎馬にて通過(宿泊なし)

文久3年7月頃、攘夷の事につき京都へ用事の節通過 (宿泊なし)

文久3年8月18日、八・一八政変報知のため急ぎ帰国の節通過 (宿泊なし)

 

長府藩の京都藩邸は三条通下立売油小路にあったが、参勤交代では京都市街は通行禁止なので、

①③の江戸参勤交代の場合、大坂中之島長府藩邸から、東海道を登り、伏見宿を通って、伏見の墨染から髭茶屋追分の道路を抜け、大津宿に向かう。

②④の帰国の場合はその逆で、大津宿からは、髭茶屋追分を経由、伏見宿を経て大坂に向かう。

いずれの場合も、伏見で宿泊する場合は京橋近くの4軒の本陣、2軒の脇本陣のどれかを使用することになる。

 

⑤⑥⑦⑧の場合は参勤交代ではなく、目的地の京都市内には京都藩邸や大徳寺など宿泊場所があるため、伏見では宿泊していないはずである。

 

以上の事から、伏見での滞在があるとすればすべて参勤交代での滞在であり、あっても計4泊ほどになるが、

もともと長府藩の本国勤務の慎蔵は、在京勤番の藩士でもないため、伏見を通る街道は知っていても伏見市内の地理にそれほど明るいとは思えない。

 

逃走先の薩摩藩伏見屋敷の場所を、慎蔵は明確に知っていたのだろうか?

龍馬とともに上京したのも、長府藩の内命では

薩長連合の行方、②京都の時勢探索、③薩摩藩の内情探索を目的としており、本来、事件の翌日は京都の薩摩藩邸に入るつもりでいた。途中の伏見屋敷には用はない。

 

また、薩摩藩伏見屋敷は、東海道の街道から2町ほど外れているため、伏見屋敷の場所を正確に知っていたか否かは分からない。

 

ただ、今回の上京では薩摩藩士の身分であり、何事にも慎重な慎蔵は、寺田屋に滞在しているときに伏見屋敷の位置を確認していた可能性は残る。

 

但し後年の慎蔵からの聞き取り「三吉慎蔵時治氏談話ノ要」によれば、

「川水ニテ衣袴ノ血ヲ滌キ草鞋ヲ拾ッテ薩邸ニ赴ク方角ハ分ラズ誠ニ困却ヲ極メタリ漸ク薩邸ニ至リテ・・云々」とあり、材木場所からの正確な方向と場所は明確でなかったことが分かる。IMG_0012.JPGIMG_0018.JPG

 

寺田屋からの逃走の際は、奉行所の場所から遠く離れ、材木納屋までは伏見屋敷のある方向に逃げてきたのは間違いない。

ただ正確な伏見屋敷の場所を、動けない龍馬から聞いたとしても、せいぜい濠川上流の川沿いにあるとか、何筋ほど北にあるはずとか、あるいは伏見屋敷への東海道の最寄の目印といった程度ではないだろうか?

 

慎蔵は逃走の状況を日記抄録に以下のように記す。

「最早逃れ路もなく川岸には夫々出張手配の様子に付・・・・・・時既に暁なれは猶予むつかしと云う、(龍馬の)其言に従ひ直に川端にて染血を洗ひ草鞋を拾ふて旅人の容貌となし走出つ、其際最早市中の店頭に既に戸を開くものあるを以て、尚ほ心急きに二町余り行く、幸ひに商人体の者に逢ひ薩邸のある所を問ふに、是より先き一筋道にて三町余りなりと云ふ。即ち到る」

 

ここでのポイントは

①川岸には夫々出張手配の様子

②時既に暁なれは

③川端にて染血を洗ひ草鞋を拾ふて旅人の容貌となし

④最早市中の店頭も既に戸を開くものある

⑤心急きに二町余り行く、

⑥幸ひに商人体の者に逢ひ薩邸のある所を問ふに、是より先き一筋道にて三町余りなりと云ふ。即ち到る

 

①川岸には夫々出張手配の様子

材木納屋から窺い見た様子では、濠川の岸辺には捕吏が出張っており捕り方の手配がなされている。

したがって、濠川の河岸近辺は近寄らないはずだ。

 

②時既に暁なれ

襲撃のあった慶応2年1月24日(実際の襲撃は午前2時過ぎ)は西暦では1866年3月10日。

この季節は朝6時までには空が白んでいて、見つかり易いリスクも増えるが、町の様子が分かり、走りに強く極めて健脚の慎蔵には逃げやすいはずだ。

 

③川端にて染血を洗ひ草鞋を拾ふて旅人の容貌となし

尋常の旅人の姿に改めている。従って伏見宿早立ちの旅人として一人で街道を小走りしても怪しまれにくい。

慎蔵は伏見市内を通る東海道は計8回通っているので、街道についてはよく見知っているはず。

逃走には通ったことのない他の市中の道よりも良く知っている街道を選ぶと思われる。

 

④最早市中の店頭も既に戸を開くものある

店屋が並んでいる道を通っている。

 

⑤心急きに二町余り行く、

おそらく街道沿いに二町余り進む

 

⑥幸ひに商人体の者に逢ひ薩邸のある所を問ふに、是より先き一筋道にて三町余りなりと云ふ。即ち到る。

商人に聞いた場所から、伏見屋敷までは一本道で3町余りの距離。

これは大きなヒントになる。

 

以上の条件から、慎蔵の逃走経路を描いてみる。

 

緑は伏見宿を通る東海道

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候補は4つ考えられるが、

(A)は、毛利橋を渡り、濠川沿いに一本道だが、川岸に出張しているであろう捕吏に見つけられやすい。

(B)は、土橋を渡るが、材木納屋からは何度も道を折れ、なかなか複雑なルートを進む必要がある。

(C)は、割合単純な道だが、商人に出会ってから三町余りの距離の一筋道の条件に合わない。

(D)は、東海道の道を通り、道を急ぐ旅人のイメージに合う。商人との出会いが下板橋通りに近い鷹匠町辺りであれば、三町余りの距離の一筋道の条件にも合う。

 

結論としての寺田屋~材木納屋~薩摩藩伏見屋敷までの逃走ルートは以下の通り

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現在の地図では

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