幕臣一家

5月15日は、154年前の慶應4年に上野にて戦争のあった日になる。 この日、幕臣の高祖父・河島由路は16歳の長男由之と一緒に彰義隊に参加して黒門口で戦い戦死している。 したがって旧暦の5月15日前後に行われる彰義隊慰霊祭は、僕にとっては高祖父の河島由路の供養の日であり、現在の僕がいるもとになった、生き残った曽祖父・河島由之への感謝の場でもある。281215116_4842050025922700_4012563038232486739_n.jpg 河島由路は、幕臣で役職は賄方、石取りでない七拾六俵五人扶持の小臣であるが、徳川家より永年受けた恩顧に報いるため彰義隊に参加した。IMG_0100.JPG 参加の前後に、親しく行き来していた妻・鋹(とし)の弟二人と会い、徳川家の置かれた現状とその行く末について意見を交し、また各々の覚悟を確認し合っている。 一人は小杉家当主で、長崎奉行支配調役並出役のあと日光奉行支配調役を勤めた小杉直吉32歳。 一人はその弟で、鳥羽伏見の敗戦後、徳川慶喜松平容保など旧幕閣を大坂から江戸に運んだ開陽丸の蒸気役一等(機関長)の小杉雅之進25歳。 三人とも本郷近辺に住み、役職も皆同じ賄方であった。 このあと、幕臣一家の三人は最後のご奉公としてそれぞれ別の道を歩んでいく。 小杉直吉は、4月の江戸開城後、5月に徳川家の駿河国への移封に従い沼津に移り住む。のちに新政府に仕官し大審院判事、名古屋控訴院長を歴任してから晩年再び駿河に戻り、慶喜の能・謡の師匠としてのお相手も務めながら徳川家に仕える。IMG_0523.JPG直吉の三女杪(すえ)は慶喜の薦めで久能山東照宮宮司松平健雄(松平容保の次男)に嫁いでいる。 小杉雅之進は、榎本武揚に従い旧幕府の旗艦開陽丸に乗船し、8月品川を脱走、蝦夷地を目指すが、翌明治2年5月に箱館戦争に敗れ五稜郭にて降伏する。02DSCN7130.JPG          後列左端が小杉雅之進、江差奉行並good.jpg降伏後、弘前に幽閉され、その間に箱館戦争の戦記として名高い『麦叢録』を著す。明治7年に榎本武揚の願いに応え新政府に仕官するも専門の海軍畑を嫌い、内務省駅逓寮に出仕し海事分野で活躍する。 河島由路は、5月15日、上野で戦いが始まると激戦の山下三橋黒門詰を守る。 時刻は伝わらないが戦いの渦中に銃弾にて胸から背中に貫通銃創を負う。共に参戦していた16歳の長男・由之と家臣数名とが重傷の由路を戸板に載せ夜陰に紛れて屋敷に連れ帰り、手を尽くしたるもその甲斐なくその夜死去してしまう。 由路の屋敷は湯島天神仲坂下にあり、黒門とは直線距離にして約700mの短距離とはいえ、新政府軍の本営のあった現松坂屋とも300mほどしか離れておらず、戦い当日の夜に敵中を屋敷まで無事に運べたのはほとんど奇跡に近いことであった。 河島由路の長男・由之は、幕府の昌平黌に入学していたが、幕府崩潰に伴い廃校となり、後に同校に籍を置いた者が相集いて、お茶の水聖堂境内に昌平会を作ったという。 河島由之の長男・精一は、大正初め、長府藩士三吉慎蔵の孫娘・梅子と結ばれる。三吉慎蔵は、伏見の寺田屋にて坂本龍馬を幕吏との乱闘から救ったことで知られるが、明治10年に宮内省に奉職し、輪王寺宮が還俗した北白川宮能久親王の御付・家令として仕えている。       北白川宮能久親王の御付であった明治11年DSCN4742.JPG

僕からみると、幕府人河島由路と長府人三吉慎蔵の相反する二人の高祖父が、ともに輪王寺宮という主に仕えたことになる。歴史とは不思議なものである。

 

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

 

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