生野義挙数日間の北垣晋太郎の行動

生野義挙を記録したものとして、地元但馬から参加した小山六郎が書き残した「但馬義挙実記」がある。

40.jpg42.jpg 六郎が生野義挙を追懐し義挙の真相を記した貴重な資料で、覚書には義挙の参謀に任じられた木曽源太郎(旭健)が注釈を加筆しており、『維新日乗纂輯 二 』に収められている。

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しかし実は、もうひとつ、「但馬義挙実記」とほぼ同じ内容だが、やや詳述の「山陰義挙実録」を六郎は残している。 内容としては、延応寺会議の様子、本陣における動向、達文の掲載などが詳しいのが特徴だ。

50.jpg52.jpg 「但馬義挙実記」も「山陰義挙実録」も、いつ書いたのかは明確ではない。 小山六郎は明治4年12月24日に憂国の赤誠をもとにした上申書を官に奏上しその貫徹を期し自刃しているので、それより以前と知れるが、 生野義挙が破陣した文久3年(1863)10月から、長州に逃れ内戦で目を傷めた慶応元年(1865)3月頃までの間と想定もできる。 あるいは、地元但馬に帰郷した慶応4年から明治4年の屠腹までの間に、義挙に共に参加した弟の六左衛門に口述筆記したのかもしれない。

不思議なことに、生野義挙を調べるため「但馬義挙実記」と「山陰義挙実録」の複写を入手してしばらく経ってから、六郎が実は父方の先祖縁者の一人と分かったのだった。 小山六郎は今の朝来市山東町の庄屋出身で、文久3年(1863)10月の破陣後は因州鳥取藩に匿われ、のちに長州へ逃れる途次、高杉晋作と会い奇兵隊に参加することになる。 この「山陰義挙実録」には、小山六郎と兄弟の義を結んでいた北垣晋太郎(のちの国道)について、生野義挙のお膳立てをしてきた北垣はいち早く大和破陣のことを知り生野義挙の中止を説いているので強硬派とは路線が違うのだが、以下のことが書いてある。 「参謀木曽源太郎曰く、我14日の落城まで生野に居りたるが北垣は見受けず、不審なり。 また、元帥澤主水正殿曰く、余既に売られたり。 田岡俊三郎・本多素行も曰く、吾輩売られたりと。 是に於て之を考えるに、北垣は本営に来らざるは著明なり。」

なんとも、この箇所だけ読むと、北垣の行動に不信の眼が向けられている。 実は、生野義挙での北垣晋太郎の行動について、参謀や義兄弟も実はよく把握していない。 北垣は、10月11日に澤一行が延応寺へ到着したときはいたが、そのあと八鹿村に帰村し、13日に八鹿村から山口まで出張し南八朗と議論し、その足で生野に来たことになっているが、生野本陣にいた者が北垣を見たという記録がない。 破陣後の因州までの逃走経路は、生野書院に詳細図があり、分かっている。 生野町史研究の先覚者と言われる太田虎一氏の『生野義挙日記』でも、 この間の北垣の行動は明確には記述がない。56.jpg

ただ破陣後、平野二郎(国臣)は横田友次郎(因州鳥取藩出身)と脱出後は逃亡行動を共にするが、10月14日に能座の北垣晋太郎を訪ね町村の叔父北村平蔵宅にて会ったとの史料がある。 この時北垣は、「先導したいが但馬の者は皆顔見知りなので発見され易いから、残念ながら横田氏に東導を頼む」と言い、昼飯を共にして袂を分かった、との記述がある。

その後、平野と横田は翌10月15日に上網場(カミナンバ)の村京屋にて捕らえられてしまう。 『生野義挙日記』は、生野義挙を取り上げた書物が多い中でも優れもので、1993年生野義挙130周年記念事業のひとつとして復刻されている。 130余ページに渡って、義挙の顛末を日時を追って記述している。事の起こる源からから終焉まで、様々な史料の原文をふんだんに駆使し、実によく詳細に調査している。 もともとは昭和16年の著作になるが、その後の研究で新たに明らかになった点があるのは致し方ないとしても、今の時点でみてもこれ以上の日録はないかもしれない。

「山陰義挙実録」での北垣の行動についての旭健の指摘から、北垣の10月12日から14日までの行動を調べているのだが、まだ結論は出ていない。 澤主水正の孫澤宣一氏の『生野義挙とその同志』にも種々史料をベースに検討しているが、北垣の行動は不明のままだ。 そろそろ北垣本人の主張をこれから拝見しようかと思う。

 

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