長府藩士三吉慎蔵の妻

伊予70歳ころ


一昨日は、三吉慎蔵の妻伊予の祥月命日


伊予は長府藩士・正村喜三郎の三女で、明治44年(1911)1月に没している。享年71才。

慎蔵は小坂(おさか)土佐九郎の次男で、安政4年(1856)3月に三吉十蔵の養嗣子となる。その翌安政5年1月23日に、17歳の伊予と婚儀を結んでいる。
余談になるが、奇しくも9年後の慶應2年(1866)の同じ1月23日に、慎蔵は寺田屋にて龍馬とともに難に遭っている。

 

慎蔵には、一つ違いの長兄・小坂住也がいる。
小坂家の系図によれば、住也の妻は、正村喜三郎忠起四女とある。つまり、
小坂兄弟は、正村家の四女・三女を嫁にしたことになる。
当時、兄弟・姉妹同士の婚姻のケースは、意外と多いようだ。

正村家は、喜三郎とその長男・信一などが、長府毛利家での働き、親戚としての法事、家人への見舞いなどの場面で、『三吉慎蔵日記』に度々登場し、慎蔵と正村家との強いつながりが見て取れる。

伊予は、当然ながら龍馬もお龍も見知っている。
慎蔵の長男・米熊が昭和3年に亡くなったあと出版された『三吉米熊先生』に、米熊の回想が引用されている。
「坂本さんがよく裏から忍んで来て蔵の中で父と二人きりで終日語り明かした事があったが其の蔵には何人も寄せ付けなかった。したがって父と坂本さんとの間にどんな話があったか誰も知る者がなかった。しかし母だけは時々一升徳利を携えて蔵の中に入る姿を見かけたものだ」
この話は、慶応2年正月に慎蔵と龍馬が初めて会った時ではなく、その時以後、度々龍馬が長府を訪れたときの情景と見た方が良いのだろう。

伊予がお龍を知ったのはいつかは分かっている。
慎蔵は慶応2年(1866)1月23日夜半(今の時間感覚では1月24日午前)の寺田屋遭難のあと、3月7日の晩に長府に帰宅する。その夜、いつも寡黙な慎蔵もさすがに、家族に騒動の顛末を話したと伝わっている。危急を知らせたお龍の話が出たことだろう。

伊予が実際に、お龍と顔を合わせた最初は何時かは分からない。
ただ、龍馬が暗殺されたあと一か月後の慶応3年(1867)12月15日に、龍馬のいわゆる遺言に従って、慎蔵が長府の自宅にお龍27歳と妹の君江16歳を預かっているので、遅くともこのときと思われる。

慎蔵の家族構成は、養母・三吉喜久、慎蔵、伊予、長男米熊、次女トモであるが、伊予はお龍と同じ27才であった。

お龍はこの10か月ほど前に龍馬と共に長崎から下関に来て暮らしているのだが、12月15日以前に龍馬と一緒に慎蔵宅を訪れたとの記録は今はない。
寺田屋遭難の前後、寺田屋での宿泊、薩摩藩伏見屋敷・二本松屋敷での滞在など合計で47日ほど慎蔵とお龍は交流があるはずなので、慎蔵宅に龍馬と一緒に会いに来てもよいと思うのだが、その史料はない。

ちなみに、慎蔵宅にいるときに、お龍は米熊7歳とトモ2歳の子守をしたとの伝聞が子孫に伝わっている。

 

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