慶應2年1月23日は寺田屋遭難があった日

157年前の今日が、龍馬と三吉慎蔵の寺田屋遭難の日
時刻は旧暦の慶応2年正月23日八ツ時頃(午前2時頃)。
当時の1日は日の出から日の出までなので23日。今風には24日午前2時頃。
西暦では1866年3月10日。要は事件が起きたのは冬ではなく春なのだ。
 このとき幕府の捕吏との戦いで慎蔵が闘死していると、今の僕はいない。
と云うことであれば、慎蔵が戦い逃走したことに有難みが増し、龍馬は僕の命の恩人になるのだけれど、実際には曾祖母になる慎蔵の娘・友は、事件の前年に生まれている。
 
ま、とにかく

慶應2年の正月元旦に坂本龍馬長府藩士三吉慎蔵は初めて会い、二人は薩長同盟の見極めのため京都に向かう。

同盟の成立に立ち会った龍馬は同月23日に伏見寺田屋にて潜んで待つ慎蔵を迎えに寺田屋に戻るが、その夜幕府の捕吏に襲われる。二人は捕吏との闘いから辛くも逃げおおせる。

このとき、慎蔵は、
①共に戦い負傷した龍馬を肩にかけ遁れる(慎蔵日記)
薩摩藩邸に走り動けない龍馬を救出する(慎蔵日記、龍馬書簡)
龍馬は、
①銃を捨てたあと、慎蔵の敵中への突入を止める(慎蔵日記、書簡手紙)
②材木置き場での慎蔵の割腹を止める(慎蔵日記)
二人は、この事件で死生を共にしお互いが命の恩人であることの信頼関係から、親しく書簡を交わし、龍馬は馬関に寄港した際は長府の慎蔵のもとをたびたび訪ねるようになる。

そして龍馬は、いろは丸事件を契機に自分に何かあった場合のお龍の後事を慎蔵に頼んでいる。
慎蔵は、悲報が馬関に届いたときにお龍に事実を伝える役目を果たし、土佐に送り届けるまでの間長府の自宅にてお龍を預かっている。

死生を共にした龍馬を慎蔵は生涯忘れず、明治期にも節目の時に当時を偲んでいる。
三吉慎蔵日記から抜粋すると、

明治14年12月18日 51歳
坂本良馬十五年祭ニ出席(坂本直ヨリ案内)佐々木高行参議、土方久元大輔其ノ他旧縁有志参集

明治19年12月11日 56歳
坂本石川両先生二十年祭ニ参席、両染筆顔色色々持参ス

明治23年1月23日 60歳
伏見ニテ難事ノ二十五年当日ニ依リ内祝ス西郷坂本石川等ノ軸物ヲ調整シ並ニ其節相用候刀類ヲ出シ記念ス

明治28年1月23日 65歳
伏見遭難当日二十九年記念宴会栢両人相招キ家族一同晩餐ス

明治29年1月23日 66歳
伏見寺田屋ニテ坂本先生一同遭難満三十年ニ付記念、又坂本先生死去ヨリ三十年十二月十五日ヲ本日取越祭ヲ行フ。
今枝流剣術七個ヲ慎蔵行フ住也受大刀(注:住也は実兄の小坂住也)
中床ニ神霊写真ヲ安置シ献供ハ塩洗米神酒竹ノ子小鳥(注:神霊写真は龍馬よりもらった龍馬写真のこと)
陳列ハ槍刀剣ピストル其他坂本先生始メ西郷木戸福原其の他の手跡を出し置く
旧藩主毛利元敏公ノ歌
  三十とせとすぎしむかしのくれたけの
  ふしみのゆめを神もしのばん

後年の年祭の月日をみると、三吉慎蔵にとっては、龍馬が亡くなった11月15日よりも寺田屋にて死生を共にした1月23日の方がより大事な日であるようだ。