朝ドラ「らんまん」と大久保家
「らんまん」をいつも楽しく拝見している。
先週は、東京大学助教授大窪昭三郎が自らの立場を明らかにし、今後の新しい展開が予想される場面があった。
昭三郎のモデルの大久保三郎は、元東京府知事・大久保一翁の三男になるが、東京大学の助手になるにあたっては勝海舟の世話にもなった。
三郎の斡旋を依頼された海舟にとって、一翁は幕末時に海舟を抜擢した恩人であり、上司でもある。
「らんまん」に登場する大久保家は僕的には、
三吉慎蔵と河島由路との二人の高祖父と若干関わりもある。
三吉慎蔵は、薩長和解の見届け、京都政局及び薩摩藩内事情探索のために龍馬たちと上京したが、その途次の慶応2年正月18日夜に龍馬と共に大坂城代の大久保越中守(一翁)を宿舎に訪ねている。
越中守から、今は龍馬の探索が厳重で、また長州人が同行していることが幕吏に知られ、手配されていることを知らされる。当時朝敵とされた長州人とは三吉慎蔵のことだが、早々に当地から立ち退くのが良いと忠告され、慎蔵たちは武器を調達し速やかに京都を目指すことになる。
ところで、大久保家の菩提寺は、明暦の振袖火事で名高い本郷の本妙寺。幕臣で彰義隊に参加した河島家の菩提寺でもある。
上野戦争で戦死した河島由路は慶応4年5月に葬られ、大久保一翁は明治21年に墓石が建てられている。
明治43年に本妙寺が豊島区巣鴨に移転した時に、各々の墓は改葬されており、大久保三郎は巣鴨に移転後の大正3年に葬られることになる。
朝ドラ「らんまん」と第二回内国勧業博覧会
実際には、このとき19歳で、顕微鏡や書籍を購入するため上京し、内国勧業博覧会の見物のほか、文部省博物局に田中芳男、小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集し帰郷する。
ところで、この第二回内国勧業博覧会には、旧長府藩士三吉慎蔵の娘登茂(トモ)もレースの勉強中のため出かけている。
なおこの時は三吉慎蔵は宮内省に出仕し、北白川宮能久親王の御附を勤めていた。第二回内国勧業博覧会の事務総裁は北白川宮能久親王なので、御附である三吉慎蔵は事務方の長として励んだに違いない。
内国勧業博覧会の様子を『三吉慎蔵日記』から拾うと、
〇明治13年3月26日に、博覧会事務総裁に北白川宮能久親王が任命される。
陸軍中佐三品能久親王
内国勧業博覧会事務総裁被
仰付候事
明治十三年三月二十六日 太政官
〇明治14年3月1日に、博覧会が開催され天皇陛下がお出ましになる。
一 博覧会開業式被為行
聖上行幸、北白川宮総裁に付、御祝文御読上直に
聖上へ御奉呈終て
聖上より之御答弁北白川宮へ御直に被賜候事
此日宮御附之儀を以て拝観証持参し御場所へ出頭す
十一時前相済退出す
右御式無滞被為済候儀を以、宮殿下より酒饌料を頂戴す
〇明治14年5月8日に上野美術館にて北白川宮主催の宴会があり、慎蔵が宴会事務方を務める
一 今般大日本博覧会御総裁北白川宮御勤に付、本日上野
美術館に於て午前第十時より御宴会酒肴被下候に付、
副総裁(佐野常民)始め諸委員中へ拝謁に付出張致し、
夫々御引合之儀取計候事
一 御酒肴折詰にして御盃添五百二拾人
酒饌料菓子添二百五拾人
右御招請案内状当日各名へ引合等総て取計方被仰付候事
右に付金二千円特旨を以て北白川宮へ下賜之事
〇明治14年6月10日に博覧会賞牌授与式が天皇臨席のもと行われる
一 内国博覧会賞牌授与式に付
行幸 総裁北白川(宮)能久親王
右に付登茂女事レース製造伝習中に付、本日御式場へ参集す
なお、私の曽祖母である慎蔵の娘登茂は、後にレースの出来栄えがよく皇后陛下より賞を頂戴している。
慎蔵や登茂が朝ドラの主人公と博覧会場のどこかでニアミスしていたのではと考えるとドラマもより楽しめるかもしれない。
大森房吉と関東大震災
大森房吉と関東大震災
を拝見した。
今年は大正12年(1923)9月1日11時58分に起きた関東大震災から100年。節目の年なので、今年は関東大震災からみの番組は多くなると思う。
今回の「英雄たちの選択」は、日本の地震学の創設者・大森房吉を取り上げた。大森房吉を中心にした番組はおそらく初めてではないだろうか。また、番組の中では関東大震災を予言し地震の神様と評された今村明恒にも触れられていた。
彰義隊に参加した高祖父河島由路の曾孫・治子が今村明恒の五男・昇(地震学者)に嫁していることもあり、まことに興味深く拝見した。写真は、昭和11年(1936)新春、煙霞荘(自宅)で、今村夫妻(前列)と子供一同
後列左から、四男正治(妻、間野英子)、五女仲子(川崎憲治に嫁す)、三女紀子(山本利三郎に嫁す)、長男文雄(妻、米原不二子)、三男久(妻、嵯峨根静子)、四女節子(川瀬二郎に嫁す)、六女蕗子(近藤實に嫁す)、五男昇(妻、山崎治子)。
東京帝国大学地震学教授の大森房吉は、今日使われる「震度」や「震源」など地震科学の基礎となる基準を世界に先駆けて確立した研究者で、P波(初動波)を記録する大森式長周波地震計を開発し、この地震計を各地に複数設置することで、世界のどこでどの大きさの地震が発生したのか確認できる方法を確立した。
左のP波の長さ(継続時間)により、各々の地震の震源地の距離が分かる
大森の発見した公式
ドラム式の地震計
P波も記録できる画期的な地震記録計
地震計を異なる場所に設置することで、震源を特定できる。
大森が開発したこの「地震計」や「大森公式」は、地震学の基本原理として現在も世界中に用いられている。その功績により、日本人初のノーベル賞候補にも挙げられるほど、当時その名は世界にも轟いていた。
一方、同じ東京帝国大学地震学助教授の今村明恒は過去の古文書を研究し、地震に発生周期があることを確認する明治38年(1905年)「50年以内に東京で大地震が起こりうる」と説き、震災被害軽減の対策として特に火事による惨禍に警告を発し防災の重要性を訴えた(雑誌「太陽」九月号に掲載)。
ところが、翌明治39年(1906年)1月16日、「東京二六新聞」が今村論文を「今村博士の説き出せる大地震襲来説 東京市大罹災の予言」の見出しで、防災についてはカットし、センセーショナルに報道する。
直ちに今村は同新聞に抗議文を送り、抗議文は同新聞の1月19日に掲載されたが、21日に東京で小さな地震が起ったことなどもあり、世上ではその後も地震発生の必然だけが取り上げられ大騒動が続く。
これに対し、国家・社会に責任を持つと自負していた上司の大森房吉が、同年1906年「太陽」三月号に「東京と大地震の浮説」を発表し、今村説を世の中を動揺させる「浮説」だと否定する。
もちろん今村は納得しなかったが、当時地震学会の最高権威と見なされていた大森博士の主張とあって、一応地震騒動は終結し人心は治まった。
しかし大森教授の言は、肝心の地震対策の切迫感を薄れさせ、結果として関東大震災の被害を甚大にしてしまう事につながる。
関東大震災の発生によって、大森房吉は国民から「地震予知をできなかった学者」という非難を浴びたまま、間もなく大病により死去してしまう。
ただ、大森房吉は、東京近郊を震源地とする大地震発生の可能性について研究を深め、関東大震災の3年前に関東近辺での次の震源地を正確に予測はしていた。
大森房吉の関東地区での次の震源の研究
過去の地震の震源地をプロットし、次に起こりそうな区域を想定する。少ない区域が次に震源となり得るとした。
次は、相模湾沿岸域であると、正確に認識してはいた。
但し、日本人の悲願である地震予知の難題に挑んでいたが科学的根拠がまだ完全ではないとしてためらい世の中に公表しなかった。
今回の番組は、自然の脅威と向き合った「地震学の父」の学者としての葛󠄂藤に迫っている。
関東での大震災の発生場所をかなりの確度で想定しており、その地震発生により災害リスクを世の中に知らしめなかったことになるので、結果的には大森房吉についての評価は番組では以下の結論ではあったが、僕にも説得力があるものだった。
地震学者には、今に通じる二つの責任がある。
大森房吉は、その一つの「知らせる責任」を怠っていたということができる。
参考:NHK放送:英雄たちの選択 幻の地震予知 ~大森房吉と関東大震災~
品川沖の榎本艦隊その2
「榎本艦隊最後の雄姿」との題で写真が載っている「別冊歴史読本ビジュアル版」(昭和63年)を入手した。
この写真は、『幕末・明治の日本海軍』に掲載されている写真や、Wikipeia「榎本武揚」に掲載の写真の元になったもので、説明には、「この写真は幕臣松尾一化子旧蔵の紙焼きを所持していた造船史の権威・故山高五郎氏から海事評論家の飯盛汪太郎氏が譲り受け、複写したものを、飯盛氏のご厚意により借用しました。」 との註がある。 ただし、松尾一化子は、松尾樹明(梅本貞雄、1900年 - 1961年)のことで、日本初の写真史家といわれている人物であり本人は幕臣ではない。撮影した人物と撮影した場所・年月日は、この複写写真だけでは判断はできない。 写真をみると、全部で6隻の船が写っている。
その特徴をマスト、帆装艤装、動力の点からみてみる。 帆装艤装の説明は、『海王丸体験航海テキスト』によると以下の通り
右から、 1隻目 3本マスト、バーク型、外輪?
2隻目 3本マスト、シップ型、動力不明(但し煙突らしきものあり)
3隻目 3本マスト、バーク型、動力不明(但し煙突らしきものあり) 手前に浮かぶのは小舟らしい
4隻目 2本マスト、帆装不明、外輪? 5隻目(4隻目の後方) 3本マスト、帆装不明、動力不明
6隻目 3本マスト、帆装不明、動力不明
榎本武揚は、慶応4年8月19日、開陽丸、回天丸、蟠龍丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8隻で編成した旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出した。
従ってとりあえず、写真に写っているのはこの8隻の中のいずれかの船と考えられる。 この8隻には、次のような外形上の特徴がある。
①開陽丸 マストは3本、シップ型
②回天丸 マストは3本、煙突が2本、バーク型、外輪船
③蟠龍丸はマストは3本、スクーナー
④千代田形は2本マスト、スクーナー
⑤神速丸 2本マスト、スクーナー
⑥美賀保丸 マストは3本、シップ型、蒸気船ではなく帆船である。従って煙突がない
⑦咸臨丸 慶應2年11月蒸気機関を外しているので、美賀保丸と同じく帆船である。 蒸気機関を外す前の咸臨丸の絵 3本マスト、バーク型
⑧長鯨丸 マストは2本、スクーナー、外輪船
各々の船の全長は、 開陽丸(72.8m)、回天丸(69m)、蟠龍丸(42.2m)、千代田形(31.3m)、神速丸(41.6m)、美賀保丸(52.2m)、咸臨丸(48.8m)、長鯨丸(77.6m)
マストでみると、 2本マストは、3隻(千代田形、神速丸、長鯨丸) 3本マストは、5隻(開陽丸、回天丸、蟠龍丸、美賀保丸、咸臨丸)
帆装艤装でみると、
シップ型は、2隻(開陽丸、美賀保丸)
バーク型は、2隻(回天丸、咸臨丸)
スクーナー型は 、4隻(蟠龍丸、千代田形、神速丸、長鯨丸)
動力でみると、
外輪は、2隻(回天丸、長鯨丸)
スクリューは、4隻(開陽丸、蟠龍丸、千代田形、神速丸)
帆船は、2隻(美賀保丸、咸臨丸)
動力を度外視して、この8隻の特徴を写真の6隻に右から当てはめてみると、以下のようになる。
1隻目 3本マスト、バーク型、外輪? ====>回天丸
2隻目 3本マスト、シップ型、動力不明 ===>開陽丸(or美賀保丸)
3隻目 3本マスト、バーク型、動力不明 ===>咸臨丸
4隻目 2本マスト、帆装不明、外輪? ====>長鯨丸(or千代田形or神速丸)
(4隻目の後方)の 5隻目 3本マスト、帆装不明、動力不明 ====>美賀保丸(or蟠龍丸)
6隻目 3本マスト、帆装不明、動力不明 ====>蟠龍丸(or美賀保丸)
つぎは、外輪の有無、煙突の有無が判定基準になる。 当時の帆船は煙突が高く、帆走など不要なときは引き込むか折りたたんでいる。 咸臨丸ではスクリューすら引き込む構造になっていた。煙突が見えないと外形からではなかなか純粋の帆船か蒸気船かはわかりにくい。
写真が鮮明ではないが、 1隻目は、左側に外輪らしきものが認められる。従って回天丸。
2隻目は、畳んだ煙突らしきものがみえる。従って開陽丸。
3隻目は、バーク型船で、煙突がないのは咸臨丸しかない (但し畳んだ煙突らしきものが見えるので、果たして咸臨丸か疑問は残る)
4隻目は、外輪らしきものが認められるため長鯨丸
その後方の5隻目は帆装不明だが、3本のマストに横帆の帆桁があるようにも見える。 横帆があれば、5隻目は美賀保丸であり、6隻目は蟠龍丸となる。 横帆がなければ、5隻目は蟠龍丸であり、6隻目は美賀保丸となる。
なお、『別冊歴史読本ビジュアル版』と 『幕末・明治の日本海軍』では、一番左端の船を、神速丸としている。神速丸の場合、2本マストで船尾にさらに日の丸を掲揚する柱が立っている。写真では船尾寄りの柱はマストよりやや低い柱とも認められるが、今回は3本の帆柱のマストとして神速丸ではないとしておく。
参考:『幕末・明治の日本海軍』
『小杉雅之進が描いた箱館戦争』
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品川沖の榎本艦隊
『幕末・明治の日本海軍』に掲載されている写真がある。 榎本艦隊が沖合に停泊している様子を撮影したものとされる。
Wikipedia「榎本武揚」などにも、同じ写真が掲載されており、手前に浜辺らしきものまで写っているのでWikipediaの掲載写真の方がオリジナルに近いと思われる。 『幕末・明治の日本海軍』やWikipedia「榎本武揚」などの説明では、写っているのは5隻として、船名を想定している。 しかし写っているのはよく見れば6隻であり、この6隻について船名の特定を試みたい。
榎本武揚は、慶応4年8月19日、開陽丸、回天丸、蟠龍丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8隻で編成した旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出した。 従ってとりあえず、写真に写っているのはこの8隻の中のいずれかの船と考えられる。 この8隻には、次のような外形上の特徴がある。
①美賀保丸は、蒸気船ではなく帆船である。従って煙突がない。
②咸臨丸も、このとき蒸気機関を外している(煙突を全て外したかは確認はできていない) 蒸気機関を外す前の咸臨丸の絵 3本マスト、スクーナー型
③回天丸は、外輪船で、マストは3本、煙突が2本、バーク型。
④長鯨丸は、外輪船で、マストは2本、スクーナー。
⑤2本マストは、千代田形、神速丸、長鯨丸の3隻で、他の5隻は3本マストである。 千代田形 2本マスト、スクーナー
神速丸 2本マスト、スクーナー
開陽丸はマストは3本、シップ型
蟠龍丸はマストは3本、スクーナー
⑥全長は、各々、開陽丸(72.8m)、回天丸(69m)、蟠龍丸(42.2m)、千代田形(31.3m)、神速丸(41.6m)、美賀保丸'52.2m)、咸臨丸(48.8m)、長鯨丸(77.6m)
それでは、「品川沖の榎本艦隊」の写真を確認してみる。 Wikipediaの写真説明では、5隻が写っているとして、左から、美賀保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸としているが、その特定方法を推定してみる。 但し、今回は6隻写っているとして、6隻を推定する。
a)左端の船は、3本マストで煙突がない。従って候補は、美賀保丸か咸臨丸
b)左から2隻目には、その後ろにもう一隻重なって3隻目がいる。写真を拡大して確認してほしい。
手前の船は外輪船で、前後2隻のマストは全部で5本ある。 5本のうち一番左のマストが、前後どの船のものかで候補が変わる。
イ)前の船(2隻目)のものとすると、2隻目は外輪船で3本マストなので、候補は回天丸。従って3隻目は2本マストなので、候補は千代田形、神速丸、長鯨丸。
ロ)後ろの船(3隻目)のものとすると、2隻目は外輪船で2本マストなので、候補は長鯨丸。 この場合、他の5隻はすべて3本マストなので 2本マストの千代田形、神速丸は選定対象から外してよい。 3隻目は、とりあえずペンディング。
c)左から4隻目は、3本マストで低いが煙突らしきものも見える。
とりあえずペンディング。
d)左から5隻目は、他より手前に停泊しているためかかなり大きな船に見える。シップ型は1隻のみ、開陽丸。
e)右端の6隻目は、バーク型の大きな船で、左舷中央に外輪らしきものが見える。 マストは3本。候補は回天丸。
f)5隻めが開陽丸、6隻目が回天丸とすると、2隻目は2本マストの長鯨丸となり、 3隻目は3本マストの蟠龍丸か美賀保丸、咸臨丸かである。4隻目は煙突があるので美賀保丸ではないので、咸臨丸か蟠龍丸であるが、メインマストの帆桁の様子から横帆なので、縦帆の蟠龍丸ではない。ここでは、煙突らしきものがあるが咸臨丸と仮定しておく。
従って、いったん当て嵌めてみると、 左から、美賀保丸、長鯨丸、蟠龍丸(長鯨丸の後ろ)、咸臨丸、開陽丸、回天丸となる。 おそらく以上が、蟠龍丸(長鯨丸の後ろ)を除いた5隻について、Wikipedia記述者の推定方法とその特定と思われる。
また、『幕末・明治の日本海軍』では、一番左端の船を、美賀保丸ではなく、神速丸としているが、3本マストの真ん中を煙突とみて、神速丸と想定したものと思われる。
しかしながら、 左から4隻目に煙突らしきものがあるのがやはり気にかかる。 咸臨丸は、慶應2年11月には修理のため傷んだ蒸気機関を外したが、そのまま新調もせず取り外したままで船体のみ修理し、帆船として運輸専用になる。慶應3年には軍艦籍からも除かれている。 帆船であれば、航海に邪魔な煙突も取り外すはずなので、榎本艦隊の輸送船としての帆船咸臨丸には、煙突はないことになる。 従って、4隻目は咸臨丸ではないと結論付けられる。
咸臨丸にすでに煙突がないことを示す画がある。品川脱走時に開陽丸の蒸気方一等(今の機関長)であった小杉雅之進の絵である。 この「戊辰中徳川軍艦八隻品川沖開帆之図」には、煙突のないい帆船が2隻、美賀保丸と咸臨丸が描かれている。2隻の特定はシリーズで描かれている帆を張った絵から判断している。帆桁をみると、4段のシップ型(美賀保丸)と3段のバーク型(咸臨丸)の違いがある。
美賀保丸 シップ型
咸臨丸 バーク型
4隻目が咸臨丸でないとすると、実は全く違った想定が可能になる。 3本マストの蒸気船で、該当するのは蟠龍丸だけだが、マストと帆桁の形状が異なる。 2本目のマストは、4隻目は横帆だが、蟠龍丸は縦帆。 とすると、「品川沖の榎本艦隊」とされる写真の船は、果たして榎本艦隊の船なのか疑問符がわいてくる。
実は、「品川沖の榎本艦隊」ではないと考えられる重要なポイントは、『幕末・明治の日本海軍』も、Wikipediaの記述者も見落としているが、左から2隻目と3隻目の重なっている2隻の船にある。 話の筋として(2本マストの外輪船の長鯨丸を2隻目とするため)、2隻のマストは計5本としてきたが、実はよく見ると6本ある。 つまり、、「品川沖の榎本艦隊」の写真に見える6隻すべてが3本マストの船になる。 榎本艦隊の3本マストの船は、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、美賀保丸、咸臨丸の5隻で、2本マストは千代田形、神速丸、長鯨丸の3隻。ところがこれに加えて、もう一隻3本マストの船が榎本艦隊にいることになり、船の数がアンマッチになってしまう。 従って、この場合、「品川沖の榎本艦隊」の写真は、写っているのは榎本艦隊ではないという、結論になる。
参考:『幕末・明治の日本海軍』 Wikipedia「榎本武揚」 『小杉雅之進が描いた箱館戦争』 『海王丸体験航海テキスト』
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旧土地台帳からみる三吉慎蔵
〇三吉慎蔵の生家・小坂家
下関市の長府城下町にある横枕小路の端に、代々、小坂家が住んできた。 幕末時は、長府藩剣術指南役・小坂土佐九郎(9代)が暮らし、慎蔵もここで土佐九郎の次男に生まれている。
当時の地図では真ん中縦に横枕小路が走り、その横枕小路の上左端に「小坂土佐九郎」とある
この地は、その後以下のように様々な変遷を辿る。
土佐九郎の長男・住也(小坂家10代)は慶応4年6月22日に家督を継ぎ、明治9年7月14日に長男・直三(11代)に家督を譲る。 ところが、直三は明治14年10月9日に17歳にして死去してしまう。
土地台帳の記述は、直三の跡を相続した直三の実弟・義作(12代)から始まっている。 義作は明治31年9月25日に病死し、実子なきため、実父・住也が13代として跡を相続する。 そして最終的には、住也の養子・啓輔の子住男の代の大正9年12月15日に、1650年頃から小坂家が代々暮らしてきた土地を離れていることが分る。
離れた理由は不明だが、大正9年は、小坂住男はまだ山口師範学校2年生のときであり、母イトの都合であったかもしれない。
〇慎蔵が養子に入った三吉家
小坂慎蔵は、安政4年(1857)3月1日に、三吉家の養嗣子となる。 養父の十蔵は、前年10月9日に死去し、養祖父の三吉半治も翌安政4年1月18日に死去している。
弘化3年(1846)屋敷割図では、真ん中あたりに「三吉半次」とみえる。
ここは現在の松岡医院の場所になる
慎蔵が三吉家の養嗣子になったのには理由があるはずだ。 実父小坂土佐九郎は、三吉半次の娘を妻に迎えたが、のち離別する。理由は伝わっていない。 土佐九郎は、その後、慎蔵を生む津原かつ子を後妻にする。 おそらくこの時の縁が、小坂家と三吉家の何らかの誼になっており、慎蔵が三吉家の養嗣子になる要因になっていると思われる。
慎蔵は、「三吉半次」とある場所で養母・三吉喜久と暮らし、翌安政5年1月に正村喜三郎の3女・伊予を妻に迎え、明治4年まで住む。 慶応2年以後は、坂本龍馬が度々尋ね、暗殺後はお龍とその妹紀美を預かった場所でもある。 ただ残念ながら、土地台帳によれば、区画整理をしたため、それ以前の慎蔵が明治4年に上京した折、また家族を東京に呼び寄せたあと、この土地がどうなったのかの記録は残されていない。
上京した後の、長府での留守宅は、長府村大字豊浦村第315番地の栢俊雄宅(妻・伊予の縁者)としていたらしい。
〇明治23年に長府へ戻ってからの三吉慎蔵
江下の慎蔵宅があった場所
図面で見ると、(第10番)、第11番、第12番は、分筆前なのでかなり広い。
慎蔵は、東京にて宮内省に出仕し北白川能久親王家の家令として勤めている間に、旧長府藩主・毛利元敏公に従い長府に戻る事に決していたため、戻る1年前の明治22年3月28日に江下(長府村十一番地)に土地を購入している。
所有者の板垣直貞からの購入交渉は、妻伊予の縁者・栢俊雄に任せていた。 同年8月、慎蔵は、松山に駐屯中に容態の悪化した同郷の品川氏章少将のため大阪の緒方医師を伴って松山に寄った後、長府へ出向き3週間滞在している。 その際、購入した土地の検分を行い、建物の位置を決めている。 また、以前より交渉していた隣の土地(長府村十二番地)を9月5日に梶山官兵衛より購入し、地所を広げている。
たまたま、その翌日、品川少将は死去する。 同年11月に土蔵が完成し、翌明治23年1月9日に、建物が棟上したことが、栢俊雄から東京の慎蔵に報告がある。 そして明治23年3月23日に宮内省を退官し、長府に戻り、江下で暮らし始める。
ただなぜか、明治29年7月26日に小島虎蔵方(長府村816番屋敷)を借り、転居している。 この場所がどこかは今はまだ調べきれていない。 明治30年10月19日には、江下の本宅の庭の手入れの検分に出かけているので、しばらくは使用していないようだ。 明治27年5月1日に生まれた慎蔵の孫・梅子によれば、泳ぎに行くのに家から浜辺まで自分の敷地だったという。この本宅の事とみてよいようだ。
〇乃木神社の土地一部を三吉慎蔵が所有
現在の乃木神社の敷地
長府乃木神社の北側の亀の甲町に、三吉慎蔵の実兄・小坂住也が地所223坪を所有していた。 所有していた地番は、亀の甲、1844番
住也の次男・保三(慎蔵の甥)は、江本家の養嗣子になり、江本泰三と名乗る。住也はこの次男・江本泰三に、明治28年7月4日、この亀の甲の土地を譲渡する。
ところが、翌明治29年11月5日に、江本泰三は以前からの病がもとで死去してしまう。実子はなかった。 そこで、実兄住也は、江本家相続人として血統を考慮し、慎蔵の孫・梅子(このとき2歳)を戸主にできないかと、慎蔵に相談をする。 12月29日に、慎蔵は熟慮の上、梅子の相続人を断り、親戚の小野ではどうかと答えている。 ただどうも決着がつかなかったのか、翌明治30年1月22日に、養父江本弾作が一旦家督相続する。
慎蔵は住也に1月18日に屋敷を売却するときは連絡するように頼み、4月22日に坪1円での購入を住也と内決する。 7月10日には江本弾作から坪1円、計223円にて購入し、10月23日に登記を済ませている。
慎蔵は、明治34年2月16日に死去するが、この土地は同年12月12日に中島太作に所有権が移転している。 その後、所有者が何回か変わる。 大正3年に長府に乃木将軍記念会が結成され、乃木の旧家が復元され、大正8年に隣接して乃木神社が造営される。
翌大正9年7月7日に、乃木将軍記念会が、この土地を買収し、翌8日に現在の乃木神社に贈与している。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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今日は長府藩士・三吉慎蔵の祥月命日
三吉慎蔵は世紀の改まった明治34年(1901)に71歳で長府で永眠した。
慶應2年(1865)正月の龍馬と生死を共にした寺田屋遭難から35年後になり、今年は没後122年目になる。
明治11年末の慎蔵
晩年の写真
慎蔵の晩年の日記は、字がミミズがのたくったかの様な筆で極めて読みにくい。
年を取るに従い、筆力が弱くなったかようだ。
晩年の日記には、家族の中では孫の梅子の事がよく出てくる。
梅子の母友子は一昨年32年に病死しており、父の玉樹は東京にて大村家に奉職している。
長府で一緒に暮らしている慎蔵・伊予夫妻には、孫の梅子が生きがいになっているかのようだ。
親戚巡りやイベントなどによく連れ出し、たとえば、明治33年には、4月7日梅子の小学校の入校式があり、慎蔵が付き添っている。
ただ僕の祖母になる梅子は体が弱く、しばしば松岡医師(元藩医)の世話になり、学校もよく休んでいる。
最後の34年の日記をみると慎蔵の衰えが確認できる。
正月の日記は1日5行ほどの記述があるが、2月に入ると極めて少なくなる。
正月31日より気分を害し、松岡医師の来診が始まる。
謹厳実直な慎蔵は2月7日まで用達所(長府毛利家事務所)へ出勤していたが、この日を以て止めている。
体調が良くないのは、毎日書いている日記で8日、9日、10日、11日と、松岡医師の来診の記述が続くことでわかる。
以下に最後の2月の日記をあげておこう。
2月1日小雨 49
同2日雪 32
同3日雪 31
同4日雪 32
○一松岡来診あり
同5日小雪 38
一ふとう酒三本かし一個
右清末公より内藤金次郎御使を以
御二方様より御内々御持被下候事
一用達所へ出頭す三島家扶御免
江良家扶被仰付候事
同6日晴 4
同7日雪風 39
一用達所へ出頭す記事なし
同8日陰小雪 39
○一松岡来診薬用す
同9日陰 38
○一松岡来診
同10日陰 39
○一松岡来診
同11日陰雪 4
○一松岡来診
一式あり出校す梅子
(欄外)
御祭日休
同12日小雪 36
同13日雪 4
○一松岡来診あり
2月7日で長府毛利家への出勤も止め、自宅療養していたが、
13日で日記は終っており、16日まで筆も持てない危篤状態になったと思われる。
慎蔵の死去はすぐに関係者に報知されるが、
なかでも家族同志で親しく交流していた東京の乃木希典には、
長府毛利家家扶・三嶋盛二より、病症や死去の様子が書簡で詳細に伝えられた。
慎蔵は、長府毛利家より賜った功山寺の墓地に葬られる。前々年に死去した娘の友子も左隣に改葬されている。
とりあえず祥月命日の今日は、好きだったであろうお酒を供えておいた。