咸臨丸・開陽丸・幕末軍艦

品川沖の榎本艦隊その2

ランキング参加中歴史 「榎本艦隊最後の雄姿」との題で写真が載っている「別冊歴史読本ビジュアル版」(昭和63年)を入手した。 この写真は、『幕末・明治の日本海軍』に掲載されている写真や、Wikipeia「榎本武揚」に掲載の写真の元になったもので、説明に…

品川沖の榎本艦隊

ランキング参加中歴史 『幕末・明治の日本海軍』に掲載されている写真がある。 榎本艦隊が沖合に停泊している様子を撮影したものとされる。 Wikipedia「榎本武揚」などにも、同じ写真が掲載されており、手前に浜辺らしきものまで写っているのでWikipediaの掲…

福澤諭吉と小杉雅之進の写真

開陽丸子孫の会による主催で横浜開港資料館を訪れたおり、資料館の協力を得て、寄託されている先祖の史料を拝見する機会に恵まれた。 その中の一つに、小杉雅之進の写真があった。 小杉雅之進の18才の写真で、長崎海軍伝習所で三期生として当時の先端技術…

美嘉保丸遭難の余波

幕臣で海軍士官だった山田昌邦について、facebookで話題になり、気になって調べてみると、僕が従来より伝聞で聞いたことは間違っていた事が判明したので、記録しておきたい。 小杉雅之進は、仙台藩士で鴉組隊長の細谷十太夫の三男・辰三を養子にする。 晩年…

咸臨丸の航跡をたどる帆船海王丸の航海 その5

西海岸での到着場所は、幕府軍艦咸臨丸と同じサンフランシスコ湾です。湾に入るときは、ゴールデンゲートブリッジを帆船の正式な礼儀として登檣礼でくぐり、米国と米国市民に挨拶をしました。もちろん、橋は1937年の完成なので、咸臨丸の人々は見てはいませ…

咸臨丸の航跡をたどる帆船海王丸の航海 その4

海王丸に乗り航海中に一番やりたかったことはホワイト(マスト天辺の白く塗った部分)のタッチです。 30日間の航海の25日目に米西海岸に近い北太平洋上にて、ホワイトタッチが実現できました。高さは海上から50m、ほぼ垂直です。左手を離すと落下するが、無…

咸臨丸の航跡を辿る帆船海王丸の航海 その3

バウスプリット(斜めマスト)とヤード(帆桁)渡りの訓練 いずれも帆を展げたり、畳むためには必要になる作業です。

咸臨丸の航跡を辿る帆船海王丸の航海 その2

最初の登艢訓練 出航3日目でした。 初めは、ロワートップボード(マストの途中にある最初の踊り場)まで登ります。

咸臨丸の航跡を辿る帆船海王丸の航海

163年前、咸臨丸は、 安政7年1月13日午後に品川出航、神奈川港に至り投錨。 15日まで同所にて滞船し、 16日にブルック大尉を含め米海軍軍人11人が乗り組んで、神奈川港出帆し黄昏時に浦賀に投錨した。 17日は同所にて滞船、18日に水を汲みいれ、 19日午後に…

開陽丸の再潜水調査

6/13北海道新聞によると、 江差町は、慶應4年に座礁沈没した旧幕府軍の軍艦「開陽丸」を10年ぶり潜水調査する方針とのこと。 江差町教育委員会は7月末から潜水調査を行い保全方法を検討する計画だ。 今現在は、江差港付近の海底に沈む旧幕府軍の軍艦「開陽…

ディアナ号は帆船のはずだが

だいぶ前になるが、京都維新を語る会の会合にて面白い史料を見せていただいた。 プチャーチンが嘉永6年(1853)7月に長崎に来航したときの絵がある。そこには、4隻の船と幕府役人やロシア使節が描かれている。 船の1隻はパルラーダ号で、ディアナ号と同型の…

福澤諭吉の書簡

咸臨丸で渡米した乗組員で、のちに活躍する人物は多い。 木村摂津守喜毅、勝麟太郎、小野友五郎、松岡磐吉、赤松大三郎、肥田浜五郎、中濱万次郎、福澤諭吉などなど、名前を列挙するのに遑がない。 その中でも、明治時代にわたって活躍した勝麟太郎と福澤諭…

幕府軍艦 開陽丸

今年は、箱館戦争終結150年になる。 一連の戊辰戦争の最後の戦いが、五稜郭の旧幕府軍の降伏で幕を閉じたのだが、 この戦いでの旧幕府側の大きな損失は、当時の最新鋭軍艦・開陽丸の江差沖座礁沈没であった。 オランダで建造されて進水4年目、横浜に回航され…

会津と咸臨丸

縁と云うのはおもしろいものだ 2015年6月に、黒谷金戒光明寺にて京都会津会主催で第110回の法要が行われた。 この時は110回の節目なので、わだかまりを解きたいとして長州関係者にも声をかけての大々的な法要だった。 その直会の席のことだが、僕の前に母娘…