2016-01-01から1年間の記事一覧

旧東海道を歩く 8日目(11/30) 藤川~二川

藤川宿の先の長沢から赤坂宿、御油宿、吉田宿を通って、二川宿まで27キロを歩く。 広重の「藤川」には、東の棒鼻が描かれている。棒鼻は宿場への入り口を示していて、そこに10尺(3.3m)の傍示杭(ぼうじぐい)を立てた。「自是岡崎藩領 藤川宿」と書かれ…

旧東海道を歩く 7日目(11/29) 池鯉鮒~藤川

池鯉鮒宿を出立し、岡崎宿を通り、藤川宿まで25キロを歩く。 0840池鯉鮒宿を出立。 問屋場跡 0907広重の描く「池鯉鮒宿 首夏馬市」の碑の説明を拝聴している。 池鯉鮒(知立)は三河木綿の集散地として、また馬市としても賑わったという。 万葉歌碑「引く馬野…

旧東海道を歩く 6日目(11/28) 熱田~池鯉鮒

熱田(宮)宿を出立し、鳴海宿を通り、池鯉鮒宿まで歩く。 広重の浮世絵では、白文印は「熱田神宮」として、6月21日に行われる馬追祭の勇壮な景を描いている。 熱田(宮)宿は、戸数2,924戸、人口10,342人(うち男5,133、女5,209)、本陣2軒、脇本陣1軒、旅…

旧東海道を歩く 5日目(11/27) 四日市~津島

四日市宿を出立し、隣の富田から桑名宿を通り、 七里の渡しからは、海ではなく、佐屋街道を津島まで陸行する。 桑名宿から宮(熱田)宿までは、海と陸の道がある。 風人社「ホントに歩く東海道」より 佐屋街道は、東海道七里の渡しの陸路バイパスとして設け…

旧東海道を歩く 関宿編

旧東海道を歩いてみると、当時の面影が残っている場所は何か所もある。 関宿もその一つ ここでは解説は抜きで、 関宿を西から東へと歩き、淡々とその写真の展示だけをしておきたい。 「 人気blogランキング 」 に参加しました。よろしければ押してくださ…

旧東海道を歩く 4日目(11/26) 関~四日市

関宿を出立し、亀山宿、庄野宿、石薬師宿を通って、四日市まで31キロを歩く。 昨日と違ってほぼ平地を歩く。単調な平地の遠距離ウォーキングは意外と難しい。 関は、伊賀と伊勢、さらには近江をつなぐ要地(伊勢別街道)として開けた。鎌倉時代から関所が設…

旧東海道を歩く 3日目(11/25) 水口~関

水口宿を出立して土山宿を通り、難所の鈴鹿峠を越えて近江国から伊勢国へ入り、坂下宿を抜け、関宿まで31キロを歩く 0800水口宿出立 水口曳山祭りの山車蔵 0809宿場内は、北の道、中の道、南の道に分かれる。その別れ地点にからくり時計が置かれている。 082…

旧東海道を歩く  2日目(11/24) 草津~水口

草津宿から石部宿を通り水口宿まで、近江平野を26キロ歩く。 天気予報は最高気温が11度。 草津駅にて出発のセレモニーを終え、準備体操をして、 0830昨日ゴールした、田中七左衛門本陣の近くの追分まで戻る。 追分の常夜燈 草津宿は東海道と中山道の結節点で…

旧東海道を歩く 1日目(11/23) 三条~草津

お江戸日本橋に向かって、京都三条大橋を出立する。 本日は、山科を経て、大津宿を通り、瀬田の唐橋を渡り、草津宿まで約26キロを歩く。 京都三条を出立するに先立って、第一日目なので主催者よりイベント開始の挨拶のあと、 まず、ウォーキングをしっかり…

旧東海道を歩く 団結式 11/22

「 平成の龍馬 東海道をゆく! ~ 京から江戸ヘ龍馬立志の道 550キロウォーク ~ 」 に参加して、11月23日から12月11日まで19日間で旧東海道を歩いてきた。 コースは、三条大橋から日本橋までの東下り。 参加者は23名、内訳は年齢は20代1人、60代6人、70…

旧東海道を歩く  事前トレーニング

「平成の龍馬! 東海道をゆく」のイベントに参加することにした。 京都から江戸へ!東海道・龍馬立志の道550キロ ウォークと銘打っている。 先人が歩いた東海道を、同じように自分の足で歩いてみたいと思っていたが、やっとこれで叶えられる。 11月23に京…

妻は、くノ一

再放送が始まった。 第一回めの舞台は、文政7年(1824)の江戸。 のちの明治天皇の曽祖父になる、9代藩主・松浦清(静山)が、ドラマでは、前藩主として登場する。 平戸藩はかつては、貿易で栄えた土地柄であったが、貿易窓口が長崎に統一されたため財政が…

小山六郎による生野義挙の覚書

2年前に、マツノ書店から『維新日乗纂輯』全5巻が復刻された。 第二巻には先祖の小山六郎の「但馬義挙実記」も収められている。 生野義挙の参加者の手記なので、元々は一次資料といってもよいのだろう。生野義挙の研究にはまず参考資料となるのだが、復刻を…

『三吉慎蔵日記』を例に

史料は比較検証が必要となることの例 三吉慎蔵日記は清書されていて、原本が行方不明になっている。 清書は慎蔵が第三者に依頼しているので、清書を確認後、慎蔵自身が原本を破棄したようだ。 清書されたあと、慎蔵自身が内容確認はおこなっている。 慎蔵は…

斉藤一の写真から

元新撰組の斉藤一の写真が公表された。 写真はwikipediaより拝借 新聞発表では、一葉は個人、一葉は集合写真 集合写真の撮影の時期は明治30年11月14日とされている。 写真師は中黒實。 発見者のあさくらゆう氏によると、 写真師の「中黒實」をよく知らなかっ…

先祖調査からの拾遺

先祖調査をしていると、不思議なことに出会う。 これを歴史の綾と勝手に呼んでいるのだが、幕末がらみを中心に幾つか挙げてみる ①小杉雅三が、小杉雅之進と同一人物だったこと 小杉雅之進は幕臣で、長崎海軍伝習所にて修業し、咸臨丸で米国へ渡航、のちに開…

幕臣・河島由路の祥月命日

河島家は賄方の家系で、長年の間に徳川家より受けた恩顧に報いるため、慶応4年に彰義隊に参加する。 そして5月15日、上野で戦争がはじまると黒門口にて戦い、その際に銃撃を受け、胸から背中に貫通銃創を負う。 三橋側から見た黒門、右側は御成門のため閉じ…

京都守護職上屋敷跡

京都守護職上屋敷跡が出土したので、現地説明会に出かけてきた。 写真は、出土した三つ葉葵紋の軒丸瓦 守護職上屋敷の場所は、現在の京都府庁の敷地になる。 その敷地の東北角の一角に、府警本部新庁舎(京都府合同庁舎と自動車車庫)の建設が予定されている…

本能寺の変遷

一昨日、本能寺の変遷の跡を訪ねてきた 本能寺は、日隆上人によって応永22年(1415)に創建されたが、その後、法華宗内の対立や、応仁の乱・本能寺の変などの戦乱、秀吉の都市計画によって5回、場所を変えている。 元々の寺号は「本応寺」で、3回目の再興の…

宣教師シドッチの遺骨発見

昨日(4/4)、「最後のバテレン」と称されるイタリア人宣教師シドッチの遺骨発見のニュースが飛び込んできた。先祖縁者が、このシドッチと顔見知りだったので、とても驚いた。 鎖国時代に外国人宣教師らが収容されていた東京都文京区の「切支丹屋敷」跡地…

下関長府山口の旅 その1

第1日目 (3月25日) 下関在住の伊佐さんの案内で、中山忠光公の延行村での潜居跡をめぐった後、法務局下関支局にて、三吉慎蔵とその縁者の調査のため旧土地台帳を閲覧した。 時間の都合ですべてを調査はしきれていないが、取りあえず中間報告をしておきたい…

三吉慎蔵の最後

慎蔵は明治34年2月16日、数え71歳で長府にて亡くなっている。 先日、明治33年と34年の慎蔵日記を読む機会があった。 明治33年以前の日記は清書されているが、明治33年と34年はこれまで清書されていなかった。 一方、清書された日記の原本に…

今日は、三吉慎蔵の妻伊予の祥月命日

慎蔵は小坂(おさか)土佐九郎の次男で、安政4年(1856)3月に三吉十蔵の養嗣子となる。 その翌安政5年1月23日に、同じ長府藩士・正村喜三郎藤原忠起の三女、17歳の伊予と婚儀を結んでいる。 晩年の伊予(真ん中) 余談になるが、奇しくも9年後の慶應…

2016年の予定

明けましておめでとうございます。 今年は退職して7年目に入ります。 相も変わらず趣味の世界をさまよっています。 その中で、昨年は幕末や先祖の調査では幾分進展がありました。 長府藩の高祖父・三吉慎蔵については、あらたに最晩年2年間の未読の日記を拝…