幕臣・河島由路の祥月命日

河島家は賄方の家系で、長年の間に徳川家より受けた恩顧に報いるため、慶応4年に彰義隊に参加する。
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そして5月15日、上野で戦争がはじまると黒門口にて戦い、その際に銃撃を受け、胸から背中に貫通銃創を負う。    三橋側から見た黒門、右側は御成門のため閉じている
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   小川興郷が描かせた彰義隊奮闘の図
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共に戦っていた16歳の長男・由之と家臣数名とが由路を戸板に載せ、夜陰に紛れて屋敷に連れ帰るが、その夜死去してしまう。 この河島家の屋敷は、黒門からは直線距離で700mほどの湯島天神下の仲坂下にあったが、新政府軍の本営のあった今の松坂屋とも300mほどしか離れておらず、戦い当日の敵中を、夜中とはいえ家まで運べたのは奇跡に近かったのではないかと思う。     左下に、中坂があり坂下に「河島」とみえる
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菩提寺本妙寺の墓石には、死去したのは5月15日ではなく、後難を恐れ、5月17日と刻んでいる。     左から二人目が河島由路、五月十七日とある
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妻の鋹(とし)と、跡を継いだ長男・由之、次男・由親の河島一家はその後まもなく、拝領屋敷を離れる。まだ確認はしていないがおそらく近くの妻・鋹の実家の小杉家か、借家に移ったものと思われる。 賄方の河島家の屋敷には床下に生簀があったが、転出後すぐに、隣の同朋町から魚屋が引っ越してきて開業している。この魚屋は以前から賄方の幕臣と取引があったのか否かはわからない。生簀があったので商売には絶好の場所だったのは間違いない。 この魚屋は、同じ場所で代々続き、太平洋戦争のあと寿司屋に転業して、「魚て津」として最近まで商売をしていた。 僕は、先祖調査を始めた頃、この屋敷の在った場所を確認に行ったときに、お腹も減ったのでその場所にあった寿司屋に入った。これが絶品の美味さだったので、仕事で毎月の上京のたびにわざわざ足を運んでいた。     河島家の屋敷跡の一角、三階建の木造住宅に場所
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そしてある時、店の表に飾っていたこの店の由緒書「魚て津今昔由来」に気が付いて、読んでみて驚いた。 寿司屋の前は魚屋を営んでおり、明治初年に隣の湯島同朋町から越してきて開業とある。
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これが、幕臣で賄方の河島家と、この寿司屋「魚て津」とが結びついた瞬間だった。 実はこの時も、また今も、5・6年前に廃業されたこの家の主人には、この地所にまつわる幕臣と魚屋の話はしていない。 先日上京した折に暖簾分けした谷中の「魚て津」で、御主人はまだご健在と確認できたので、次回上京のおり、お話してみようかと思っている。      階段下左に暖簾分けした谷中の「魚て津」がある
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