京都守護職上屋敷跡

京都守護職上屋敷跡が出土したので、現地説明会に出かけてきた。 写真は、出土した三つ葉葵紋の軒丸瓦
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                                 守護職上屋敷の場所は、現在の京都府庁の敷地になる。 その敷地の東北角の一角に、府警本部新庁舎(京都府合同庁舎と自動車車庫)の建設が予定されている.。
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そのため事前の調査として、地下に眠る遺跡を京都府埋蔵文化調査研究センターが発掘をしていたが、 このとき初めて、京都守護職上屋敷の跡を当時の指図書通りに確認したのだった。 守護職上屋敷は、文久2年(1862)に幕末の政治・治安の維持に対処するため京都守護職に任命された会津藩松平容保が、下屋敷とともに幕府の土地に会津藩の資財を投じて建設した。文久3年(1863)に着工し、慶応元年(1865)に完工している。
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敷地は、東は新町通り、西は西洞院通、南は下立売通、北は下長者町通までを占め、守護職上屋敷の建設のために9町が消滅している。 この3万坪の土地の中央に御殿が建ち、敷地の四周・東西南北を高い二階建ての白壁・海鼠壁の多聞櫓(長屋)が取り囲んでいた。   「守護職上屋敷舗絵図」、今回の調査地は右上の赤枠部分
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大工組頭中井家建築指図書だが、中井主水はこの当時は設計はせず、大工の総監督として働いていた。 おそらく集められた大工組には、当時関西で名を馳せた宝塚の「小浜組」の西村則周なども参加したのではないかと思う。     中井主水支配、小浜組の鑑札
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    京都府庁の敷地との重ね図
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    現在の調査対象
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二階建ての長屋が東西に2棟( 北側が「建屋1」と南側が「建屋2」)、南北に2棟(左の西側が「建屋3」)見える。 左下の局部屋跡からは「溝1」が見つかっている。 発掘の状況、「建物1」、「建物2」、「建物3」、「溝1」が確認できている
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この二階建ての長屋の参考としては、守護職と同時代の旧山内家下屋敷長屋がある。
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長屋の中は待機している千人の会津藩士の住居が多数あり、二階には100畳を越える広さの部屋もあったらしい。 発掘調査地は、千年の都のあった京都市内全域がそうであるように、各時代の歴史が重層している。 地表下50cmには幕末期があり、さらにその下には、江戸時代初期、安土桃山時代室町時代までの生活の跡が今回の発掘調査で確認できている。 今後はこれからさらに発掘を進め、平安時代まで掘り下げ調査することになる。 調査するにあたって、調査地を区割り発掘している。大きくは南北3 x 東西3の9つに区割りし、このうち3つの区画はまだ発掘せず掘り出した土の集積場所となっている。
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現在の区画の状態は、 ①北側の東西3つの区画の内、西側の1つを幕末の地層(建物1)まで発掘した状態のままとし、北側の残り2つは、掘り出した土の集積場所としている。 ②その南側の東西3つの区画は、東側の1つを集積場所として、残りの西側2つを幕末の地層まで発掘している。ただし、西側2つの区画(東西に延びた建物2がある)については調査が終了し、記録を取り、東西3つ区画の真ん中の区画は埋め戻し、その上に発掘調査の作業小屋を建てている。 ③一番南側の東西3つの区画は、発掘が進み、各時代の記録を取ったあと、現在では室町時代まで掘り進めている。つまりこ南側の3つの区画には、守護職屋敷の建物3と、局部屋の溝1があるが、既に調査が終わり記録したあと、室町時代まで発掘が進んでいる。 したがって、守護職上屋敷跡として今回現地説明会で確認できるのは、北側と真ん中の区画で、各々一番西側の区画となる。ここには、上屋敷の北東部にあった、会津藩士の居住した2階建ての長屋の建物1の一部と建物2の一部がある。      「建物1」のある北側の区画
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    「建物2」のある真ん中の区画
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南側から両区画を望む、手前が「建物2」、見物者の向こう側が「建物1」の区画
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この2つの区画にも、明治になってからも小学校などが建築され、その際に土地を整理し建物基礎を作るために深く掘ってもいるので、幕末期の土地の面が大きく損なわれてはいる。 それでも、藩士の居住する二階建ての建物の柱を立てた場所として、穴に礫が埋まった個所と複数の礎石とが複数確認できる。 地盤を整地・改良した上に、70cm四方、深さ40cmほどの穴にこぶし大の礫を充填し、その上に礎石が置かれている。 当時はその礎石の上に、柱を立て、二階建ての建物を支えていた。
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          南北の「建物2」の柱列跡の写真、ここは埋め戻して作業小屋を建てている。
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局部屋跡の「溝1」の写真、この場所は既に室町時代まで掘り進んでいる
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埋蔵文化財調査研究センターによれば、 「京都に幕末の遺構は少なく貴重な資料。基礎がしっかりとした大きな建物から京都の治安維持に懸けた容保の覚悟が伝わる」としている。 これまで、会津藩士が暮らした三棟の長屋跡などが見つかっている。墓礎は三十カ所あり、地盤を固めるためこぶし大の石を埋め込んだ「根石」の上に建物を支える「礎石」を置く構造の丈夫な造りで、上屋敷を二階建てとして描いた「守護職上屋敷舗絵図」とも合致するという。 また、発掘現場からは上屋敷の遺物として徳川家の三葉葵紋が入った軒丸瓦のほか、同時代のものとみられる焼き物の皿や鉢、香合などが出土した。皿などについては「屋敷建設前の商家の所有物かもしれず、特定はできていないが、上屋敷の遺物の可能性もある」とした。
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守護職上屋敷の遺跡は、調査が終われば、幕末以前の時代まで掘り進むことになるので、この一角の幕末遺跡を実際に目にするのは今回が最後になる。 貴重な見学ができ、とても感謝している。 参考: 現地説明会配布資料      現地説明会を報じる記事
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