2012-01-01から1年間の記事一覧

河井継之助の歩いた道3

今日は、河井継之助が、安政6年(1859)7月10日に生瀬宿から有馬の湯まで歩いた道を辿ってきた コースは以下の通り。 生瀬-->一本松-->座頭谷-->蓬莱峡-->船坂-->白水峡-->有馬 生瀬から船坂まではほぼ一本調子の登り坂で、約6.5km、 船坂から有馬まではア…

会津松平家の墓誌

先日、先祖調査のため上京した。 その折、多摩霊園へ出かけ、一族の一人・高祖母の姪杪(すえ)が葬られている会津松平家のお墓に参ってきた。 これは松平容保の次男健雄の墓所で、会津松平家は容保の長男容大が相続し、健雄は分家している。こじんまりした…

三吉慎蔵の妻・伊予

今日は、長府藩士・三吉慎蔵の妻、伊予の月命日 伊予は長府藩士正村喜三郎の三女で、慎蔵が安政4年(1857)3月に三吉家の養嗣子になった翌年1月に17歳で入嫁し、明治44年(1911)1月に没している。享年71才。 伊予が龍馬を見知ったのはいつだろうか。 慶応2年正…

小杉辰三と神戸製鋼所

昨日、神戸製鋼所の本社を訪問した。 神戸製鋼所は、小杉雅之進の養子・小杉辰三が創設に関わった。 小杉辰三は、海軍兵学校15期で卒業席次は80人中2番、1番は後の海相財部彪。 神戸製鋼所創設に関わる直前は、海軍造兵少佐(海軍省技監)として呉工廠…

河井継之助の歩いた道2

河井継之助の歩いた道を辿ってきた。 今日は、前回時間切れで打ち切った伊丹から、生瀬まで まず伊丹で腹ごしらえをしてから、13時前に出発した。 コースは、 伊丹-->(有馬街道東廻り)-->大鹿-->瑞ヶ池-->鴻池-->(姥ヶ茶屋) 鴻池-->荒巻-->今里-->中山寺-…

河井継之助の歩いた道1

いま住んでいる宝塚の近辺は、幕末のころ人の往来が多かった。 宝塚は周りに、要衝の地・小浜、有馬への入り口・生瀬、酒造りの盛んな鴻池・伊丹、参拝者が途切れなく続く中山観音・清荒神などの神社仏閣、などがあり、巡礼街道、西宮街道、京伏見街道、有馬…

長崎通詞・楢林家と今村家

長崎の通詞・蘭方医の2家系(楢林家と今村家)を調べている。 先月、長崎を訪問したときは、そのひとつ今村家の源右衛門英生の墓所をお参りした。 英生は寛文11年(1671)11月5日通詞より一段低い家格の内通詞今村市左衛門公能の次男として長崎で生まれた。…

海王丸、神戸出航

神戸港で、海王丸の出航を見てきた。 海王丸が接岸している第一突堤に行く前に、近くでまず腹ごしらえをした。 この店は、銀行(スタンダード・チャーターズ・バンク)の建物を利用した洋食屋さん。大理石の金庫の中が待合室になっている。 神戸には明治・大…

彰義隊士と魚屋さん

日暮里に行くと、ランチは決まって谷中ぎんざにある鮨屋さん「魚て津」でいただく.。 この店には、安くておいしいランチも目当だが、店内に大事に飾られている「魚て津の今昔由来」の由緒書きを確認しに行くのも目的のひとつ。ここのご主人は、湯島天神下の…

尖閣ブログについての中間報告

2012年8月24日に中国国内在住の林凡氏が、釣魚島(尖閣諸島)は日本のものであると、ツイートとブログで発言した。 林凡氏のブログとツイートは、翌々日、中国政府機関により、彼女の記事をコピーしたサイトのブログを含めすべて削除され、中国国内では見るこ…

被中国政府自己抛弃了22年的钓鱼岛

中国广东省民间某企业管理人员于8月24日在微博上称,“1949年开始到1971年瓷器国政府都承认钓鱼岛是日本领土”。其拿出1953年的党报《人民日报》的新闻、以及若干地图作为证据。 发微博的为广东省的广东捷盈电子科技董事会副主席林凡。林凡为新浪加V认证人士,…

乃木神社 御祭神百年祭

今年は、明治天皇が薨去され100年になる。 従って明治天皇に殉じた乃木希典が亡くなって100年。 乃木神社では、殉死の9月13日に、「御祭神百年記念」として「御祭神百年祭」の奉納行事が以下のように執り行われた。 1)御祭神百年祭 10:00~12:…

尖閣についての林凡氏の発言全文

ツイッターの書き込み記事の元になった林凡氏のブログの全文が翻訳編集されていましたので、転載いたします。 残念ながら中国語原文はありません。 転載元のSearchinaのHPは以下の通りです。2回に分けてある翻訳編集記事を、便宜上一つにしました。 http:/…

尖閣についての林凡氏のツイート原文

中国広東省の民間企業幹部が8月24日、中国版ツイッター「微博」で「1949年から71年まで中国政府は釣魚島(尖閣諸島)を日本の領土と認めていた」と異例の発言をした。 日本領有を示す53年1月の中国共産党機関紙、人民日報の記事や、複数の公式地…

生野義挙の小山六郎

3年前ほど前から、幕末の頃の先祖の調査を本格的に開始した。 まずは母方の先祖から始めたのだが、幕臣・長府藩士とその縁者等、調べる対象は多岐にわたっている。 実際には、三吉慎蔵以外はまだ殆ど調査が進んでおらず、慎蔵についても調べが進めば不明な…

京都にある東軍慰霊碑と埋骨地碑

戊辰戦争で戦死した東軍将兵の墓は、薩摩藩や長州藩などの西軍とはその建立の経緯に大きな違いがある。 また、慰霊碑に至っては京都でも明治後年まで建立されてこなかった。ましてや鳥羽伏見の戦いで散った東軍将兵の名を刻んだ墓をみることはほとんどない。…

吉田松陰の拝闕詩碑

岡崎公園の京都府立図書館の敷地に、京都で松陰に関する唯一の碑がある。 京都は、松陰が尊撰堂を造り志士の英霊を弔祭しようとした地だが、刑死一週間前の安政6年10月20日付の入江子遠宛の書簡によれば、この地に大学校を設立して天下の俊英を集めて国家有…

京都洛東史跡めぐり

先日、白虎隊の会京都支部では「洛東 幕末の史跡を訪ねる」と題し、来年の大河ドラマ「八重の桜」にゆかりの場所をメインに史跡巡りを行った。 この日は天気予想も27度の夏日だったが、参加者6名で、3時間で16,000歩ほどの距離を皆元気で歩いた。 地下鉄…

晋作が上海で購入したピストル

高杉晋作は、上海にいた間、中でも佐賀藩士中牟田倉之助とは気が合い、一緒に外出することが多かった。晋作が短銃を求めた時も一緒にいることがあった。 しかし何故か、短銃購入の場面では、晋作と倉之助の日記には微妙な違いが散見される。スミス&ウェッソ…

龍馬が使用したピストル

慶応2年1月24日(1866年3月10日)の寺田屋事件で龍馬が使用した銃は、2月6日付桂小五郎宛て龍馬書簡に、 「彼高杉より被送候ピストールを以て打払、一人を打たをし候」 とあり、晋作より贈られた銃に間違いはない。<ahref="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/masai03/20230202/20230202233756.jpg" target="_blank">写真はスミス&ウェッソン モデル2 アーミ</ahref="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/masai03/20230202/20230202233756.jpg">…

ディアナ号の大砲その2

弁天岬台場の大砲について市立函館博物館に問い合わせたところ、わざわざ関連の史料を送って頂いた。 『亀田御役所五稜郭弁天岬御台場御普請御用留』(東大史料編纂所蔵)の一部のコピーと、『函館市史 通説編第二巻』 P93-P95のコピー 『御普請御用留』の…

二人の勇士

英公使パークス襲撃事件とは関係はないが、この事件からいつも想起することがある。 林田衛太郎と三枝蓊は、公使一行を護衛していた騎馬兵12名と第九連隊第二大隊分遣隊を始め前後も含め大勢の守備兵の中へたった二人で襲撃を敢行した。これとよく似た二人だ…

ディアナ号の大砲

最近、幕末のロシア軍艦ディアナ号の名前をよく目にする。 ディアナ号は、幕末に日露交渉のためにプチャーチン提督一行を乗せて日本にやって来たが、交渉場所の下田で東海沖地震に遭い、発生した津波で被害を被る。 大砲52門などを揚陸したあと、クリミヤ…

黒谷さんでの探墓

先日、京都の維新を考える会の4月例会で行われた黒谷探墓に参加し、金戒光明寺に葬られている方々のお墓を巡ってきた。 黒谷の南側にある岡崎神社に10時半に集合し、考える会会員の吉平さんのガイドで、東墓地、会津墓地、北墓地の順に、昼食をはさみ、1…

パークス襲撃事件の現場

一昨日、春の陽気に誘われて京都の史跡巡りをしてきた。 どこを巡るとも計画せずに家を出て、阪急電車終点の四条で降りる。 縄手通りを越えてすぐのいつもの店で、120円のみそ焼き団子2個で腹ごしらえしてから、まだ巡っていない縄手通りに関係のある、…

古文書を読む会

神戸史学会主催の講演会で、酒史学会会員の石川道子さんの講演「尼崎城下の江戸積み酒造業」を拝聴した。 主な内容は 1)酒造郷尼崎の地域、 2)江戸積み酒造業の起こり、 3)尼崎郷の江戸積み酒造家、 4)尼崎郷の酒造家と酒株の移動、 5)今後の研究課題 講演は…

海王丸の遠洋航海

幕末の軍艦の中でも幕府軍艦・咸臨丸と開陽丸に関心がある。共に蒸気機関を備えた帆船である。 現在の日本の帆船では、大きさから、咸臨丸は大阪市所有の「あこがれ」、開陽丸は航海訓練所の「海王丸」「日本丸」に勝手に比定している。 2010年は、遣米使節…

新しい赤松小三郎の墓標

会社OBの新年会が京都であり、時間待ちもかねて近くの黒谷さんに寄って来た。 ここ金戒光明寺には、会津墓地を別にすると、10人強の幕末に活躍した人々が眠っている。 京都府知事植村正直の父羽仁敬斎、 戊辰戦争時に山陰道鎮撫総督西園寺公望の知遇を得た…

新しい赤松小三郎の墓標

会社OBの新年会が京都であり、時間待ちもかねて近くの黒谷さんに寄って来た。 ここ金戒光明寺には、会津墓地を別にすると、10人強の幕末に活躍した人々が眠っている。 京都府知事植村正直の父羽仁敬斎、 戊辰戦争時に山陰道鎮撫総督西園寺公望の知遇を得た…

摩耶古道を歩く

昨日、老中小笠原長行が文久3年1月3日、摩耶山から摂海湾を一望するために登った摩耶古道を歩いてきた。 その日は新暦では1863年2月20日、149年前の同じ日になる。 文久2年閏8月17日の、海軍奉行並の任命から記述が始まる「海舟日記抄録」によれば、 長行…