ディアナ号の大砲その2

弁天岬台場の大砲について市立函館博物館に問い合わせたところ、わざわざ関連の史料を送って頂いた。

『亀田御役所五稜郭弁天岬御台場御普請御用留』(東大史料編纂所蔵)の一部のコピーと、『函館市史 通説編第二巻』 P93-P95のコピー

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『御普請御用留』の中で頂戴したのは、以下の5つの史料、

①ディアナ号の砲52門を拝借したいとの、箱館奉行所から老中への上申書(万延元年10月)

 弁天岬台場には砲50門(80斤ボムカノン砲10門、24斤ランゲカノン砲28門、モルチエル砲12門)を据え付ける。西洋溶鉱炉反射炉を造ってこれらの大砲を鋳造する計画だが、時間がかかるので、それまでディアナ号の52門の砲と付属品を借用したいとの、上申書。

②上申に対する、老中よりの覚え(文久元年頃)

 52門のうち、軍艦奉行の意向により24門なら貸せるので、軍艦奉行と相談せよのと返書。

肥前廻りの鉄製30ポンド砲24門を拝借したいとの、箱館奉行所から老中への願い書(文久2年2月))

 ディアナ号の砲24門は借用することになったが、なお不足しているので、肥前製の鉄製砲30ポンド砲24門(長身13門、短身11門)を別途借用したいとの、願い書。

④フランスより砲2門の買い上げについて、箱館奉行所から老中への願い書(文久2年頃)

 弁天岬台場は完成したが、大砲が不足している。フランスが神奈川に持っている砲を譲渡してもよいとの情報がある。当方にて鋳造するよりも格安なので、24斤施錠砲1門、野戦砲1門を買い上げたい、との相談

⑤弁天岬台場完成の報告(箱館奉行所から老中へ)元治元年9月

 弁天岬台場は完成した。ただし大砲据え付けの地形と兵士の屯所等は未完成。追々完成する予定なので完成予定の仕様書を報告書に添付する。

函館市史 通説編第二巻』は、

弁天岬台場の築造工事の着工の様子から完成までのあらましと、設置した砲について『御普請御用留』の史料①、②、③をベースに記述がある。

ここでは、ディアナ号の砲は最終的に24門が箱館に送られることになったこと、不足のため拝借願いを出した肥前廻りの鉄製30ポンド砲24門は実際に配備されたかは定かではない、と結論している。

上記史料を読むと、

①弁天岬台場には、当初50門(80斤砲10門、24斤砲28門、モルチール砲12門)を設置する計画であった

②ディアナ号の砲52門の拝借を希望したが、実際には24門を貸与されることになった。(砲の種類は不明)

③不足分は、肥前製の鉄製30ポンド砲24門を拝借し、フランスから24斤砲1門と野戦砲1門を買い上げたい。

これで、計画通り砲の数は50門になる。

ただし孰れの場合も、箱館奉行所が受け取ったことを証明する史料は残っていないので、実際に入手した種類と門数は分からない。

また、弁天岬台場が完成したときに、未完成であった大砲据え付けの地形についての仕様書が発見されれば、台場完成後に設置を予定していた大砲の門数と種類が分かるのだが、仕様書の史料が残っていない。

旧幕府軍が描いたとされる「弁天岬台場の図」には、80斤砲1門、24斤砲6門が描かれている。

図には計7門しか描かれていないが、当初計画の配備数50門との落差は大きい。

また、この7門は「海軍歴史」に記述のディアナ号の明細とは一致しない。

「海軍歴史」によれば、ディアナ号の砲の種類と数は以下のとおり

一、鉄製六拾斤長加農 四  挺

一、同  三拾斤短加農 十八挺

一、同  弐拾斤長加農 三十挺

    〆五拾弐挺

従って、弁天岬台場が完成した元治元年9月以降に、初めて設置された大砲の種類と門数は今現在は不詳ということになる。

弁天岬台場が、幕府から新政府軍、また旧幕府へと支配が変わっていく中で、大砲の設置がどのように変遷したのかは記録がない。

分かっているのは、弁天岬台場の、おそらく最後の姿であろう、「弁天岬台場の図」に描かれた7門ということになる。

しかしながら、80斤砲1門、24斤砲6門は「海軍歴史」と照らせば、ディアナ号のものではないと結論することができる。

参考:

『亀田御役所五稜郭弁天岬御台場御普請御用留』

函館市史 通説編第二巻』

『海軍歴史』

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