慶応2年1月24日(1866年3月10日)の寺田屋事件で龍馬が使用した銃は、2月6日付桂小五郎宛て龍馬書簡に、
「彼高杉より被送候ピストールを以て打払、一人を打たをし候」
とあり、晋作より贈られた銃に間違いはない。<ahref="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/masai03/20230202/20230202233756.jpg" target="_blank">写真はスミス&ウェッソン モデル2 アーミー 32口径(Wikipediaより拝借)
当時、入手可能な拳銃の種類は多いが、龍馬が寺田屋で使用した拳銃は、弾を込める場面などから、スミス&ウェッソンの拳銃に絞られる。
①S&W モデル1は、
1857年に開発され、リムファイア式金属薬莢を世界で最初に実用化したシングルアクション式リボルバー拳銃。S&W社の第一号。
威力が小さい22口径を使用しているのは、当時のプレス技術ではそれが限界の為。これ以上大きいと、発射薬の爆発に薬莢が耐えられない。
しかし、7発装填できる上に小型・軽便で使い易く、南北戦争後日本に多数輸入された。
装填は後装中折れ式で、素早い装填が可能。中折れ式とは、銃身を前に折ってシリンダーに弾を込める仕組みの事を指すが、拳銃の場合には、シリンダー中央に星型のエキストラクターが付いており、空薬莢が一度に弾き出される仕組みになっている。
口径:22(0.22インチ、約5.56㎜)
装弾:7発
全長:17. 1㎝(銃身長:8.1cm)
②S&W モデル2 アーミーは、
1861年に開発されたS&Wシリーズの第二号、通称アーミーモデル。基本的な機構はモデル1と同じだが、装弾数を減らして口径を32口径に大型化した。
この銃によってS&W社のシェアは大いに拡大し、口径の小ささから陸軍の制式採用こそ逃したものの、多くの将校・兵士達に護身用として購入された。
有名な軍人カスター将軍が使用していた事でも知られる。
口径:32(0.32インチ、約8.1㎜)
装弾:6発
全長:27. 4cm(銃身長:15,2cm)
重量:714g
③S&W モデル1 1/2 ファースト・イッシューは、
モデル1を改良し、1865年から製造開始した。
口径:32(0.32インチ、約8.1㎜)
装弾:5発
全長:22cm
1) では寺田屋で使用された銃は、種類は何だろうか?
宮地佐一郎『坂本龍馬全集』・『龍馬の手紙』によると、
慶応2年12月4日坂本権平、一同宛て龍馬の書簡で、寺田屋襲撃について精しく報告している中に、
「六連炮 を取りて、」「銃ハ元ヨリ六丸込ミな礼ども、其時ハ五丸のミ込てあれば実に跡一発限りとなり」とあり、続いて残り一発も撃ち幕吏に向け五発を撃ったことを記述している。
弾を撃ち尽くした後に銃に弾を込める回転式弾倉を図示されているが、この図には銃弾を込める穴は六丸ではなく五丸しかない。
この書簡に五丸の図示があるため、
たとえば『坂本龍馬日記』の著者のように、龍馬がこの時使った銃は、従来「S&Wリボルバー」の新型(モデル2 六連発)といわれているが、旧型(モデル1 五連発)であれば龍馬が書簡で図示した通りであり、銃は旧型の可能性が高い、
などの迷説を唱える人が現れることになる。
しかしこの主張は、書簡の中の銃についての記述、六連発であること、弾は五発しか込めていないこと、幕吏に向け五発を順次具体的に撃ったこと、などの事実を無視していることから到底認められない説である。
この慶応2年12月4日の書簡は、原書簡は行方不明になっている。
龍馬は、書簡の初めに「此手紙もし親類之方などに御為見被成候ハバ必ず必ず誰かに御書取らセ被成候て御見セ。・・・・私手紙ハ必ず必ず乙姉さんの元に御納め可被遣候」とあり、
龍馬はオリジナルの書簡は乙姉さんが持ち、親戚へは写しを見せることと念を押している。
『龍馬の手紙』に収められているのは、オリジナルの書簡ではなくあくまでも書簡の写しである。
実は、書簡の写しの一つが弘松家にも残っている。(京都国立博物館 『坂本龍馬関係史料』)
こちらの写しには、回転式弾倉として、明確に六丸が図示されている。
『龍馬の手紙』の書簡の写しの図は、むしろ写し間違いの可能性が非常に高い。
従って、結論としては、寺田屋で龍馬が使用した銃は、S&Wの新型(モデル2 六連発)とみなすことができる。
2) この銃は、晋作から贈られたものであるが、晋作はどこで入手したのであろうか?
「日誌によると上海で晋作は拳銃2挺を入手した。そのうち1挺は帰国後、下関を訪れた坂本竜馬に贈っている。
SMITH & WESSON MODEL 2 ARMYとよばれる米国製6連発拳銃で、南北戦争直前から生産が開始され北軍将兵の32口径ベルトサイズ・レボルバーとして愛用された。
竜馬は一度これを使ったが、晋作はついに使用することがなかった。高杉家は遺品の中にあったのを靖国神社資料館に寄託したが第2次大戦の終了後、占領米軍によって接収され、所在不明になった。」
とある。
高知県立龍馬記念館のHPには、
龍馬が愛用したといわれるスミス・アンド・ウェッソンのピストル、として以下の解説がある。
「スミス&ウェッソンⅡ型アーミー 32口径(真物はアメリカ製)回転弾倉付き6連発
高杉晋作が上海で購入。慶応2年1月、下関から薩長同盟締結に向かう龍馬に贈った。寺田屋事件の際このピストルで応戦するが、手に刀傷を受けピストルも紛失する。」
とし、東行庵と同じく、晋作が上海で購入したとする。
晋作は、文久2年(1862)、幕府の船千歳丸に便乗して上海に渡航し、その間のことを『遊清五録』(『高杉晋作史料』 第二巻)に書き残しており、上海では少なくとも二挺のピストルを求めている。
6月8日の条に「午後到蘭館、求短銃及地図」
6月16日の条に「与中牟田外行至米利堅人店、求七穴銃」
まず、6月16日に佐賀藩士中牟田倉之助と共に出かけたアメリカ人の店から購入した、弾倉に7つの穴のある独特の七連発銃は、当時出回っている拳銃からみて、S&Wの旧型(モデル1 七連発)とわかる。
従って、これは寺田屋で龍馬が使った新型六連発銃ではない。
6月8日にオランダ商館から購入した銃については、詳細な説明がないため分からない。
これが、S&Wの新型(モデル2 六連発)なのだろうか?
S&Wは、金属薬莢を使った初めての銃で、南北戦争では随分使われた。
和暦では、文久元年3月3日~元治2年3月14日
S&W旧型は1857年に開発・製造開始され、S&W新型は1861年から製造販売された。
Wikipediaによると、新型は、「南北戦争直前に販売を開始したが、北軍将兵に売れ行きが良く、1862年には予約数が向こう3年分の生産予定分を上回っていた」と言う。
Wiipediaの説が正しいとすると、アメリカで南北戦争が始まっていて、予約数が向こう3年分の生産予定数以上もあった銃が、果たして上海で手に入ったであろうか?
アメリカ人の店からも旧型のモデルしか入手できない状態で、オランダ商会から入手できる可能性はかぎりなく低いと思われる。
従って、晋作が上海で購入した銃は、寺田屋で龍馬が使用した銃ではない、と結論してもよさそうだ。
では、晋作は、龍馬に贈った新型銃を、いつどこで入手したのだろうか?
これは、あらためて、論じてみたい。
幕末の洋式拳銃について、以下のHPを参考にしました
http://freett.com/sukechika/ishin/wepon/ishin08-04.html
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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