晋作が上海で購入したピストル

高杉晋作は、上海にいた間、中でも佐賀藩士中牟田倉之助とは気が合い、一緒に外出することが多かった。晋作が短銃を求めた時も一緒にいることがあった。

しかし何故か、短銃購入の場面では、晋作と倉之助の日記には微妙な違いが散見される。00.jpgスミス&ウェッソン モデル1

晋作の『遊清五録』の「上海淹留日録」には、文久二年

「六月八日、・午後到蘭館、求短銃及地図」

「六月十六日、与中牟田外行至米利堅人店、求七穴銃」

「六月十七日、五代来談、午後与中牟田到英人之所有之砲台、観アルムストロング砲、々十二ホント、・・・・、自筒後入玉薬、故甚為便、英人アルムストロング之所新制、以其名々其砲、此砲六口在上海云、図如左大砲図入」とあり、

6月8日、オランダ商会で短銃と地図を購入し、

6月16日、倉之助と米人商店に行き、短銃(S&Wモデル1 七連発銃)を求め、

6月17日、前日に引き続きまた倉之助と共に、英人の砲台に行き、アームストロング砲(12ポンド)を観て、その性能に驚き図を描いている。

一方、中牟田の伝記は大正8年に発刊されたが、その『中牟田倉之助伝』の「第十四 上海渡航」には、晋作の『遊清五録』からの引用が多くある。

ピストルを購入する場面では、

「六月十七日、高杉に誘われて出で、米人の商店に行きて袂時計と短銃とを購ふ。高杉も亦、短銃を購ふ。但し、子爵の日記に依れば高杉が短銃を購ひたるは、十八日の午後なるが如し。

十八日午後、(高杉の記録に依れば十七日)二人復外出し、高杉は佛國商店にて短銃を購ふ。尋いで共に英人の預かれる砲台に到り、アルムストロング砲を観て驚嘆し、各々筆を執りて写生し仔細に説明を記入す。」とある。

6月17日、米人商店に行き、袂時計と短銃を購入し

6月18日、二人は外出し、晋作はフランス人商店で短銃を求め、二人はそのあとで英人の砲台に行き、アームストロング砲に驚嘆し図を描いた。

以上のように、晋作の日記と、『中牟田倉之助伝』で引用される倉之助の日記には、日付と内容に違いがある。

晋作は拳銃を、自分の日記では16日に米人商店にて、中牟田の日記では18日にフランス人商店にて求めている。

しかし、七穴銃とあり、また自身のことなので、晋作の16日の記述は正確だと見てよいのだろう。

つまり、晋作の日記が正確だとすると、

晋作と倉之助は、6月16日に一緒に出掛けて、米人の商店で、中牟田は懐時計と短銃を購入し、高杉は短銃を求めたことになる。

但し晋作の日記にも、実は不思議なことがある。

「上海淹留日録」原本は、6月17日で一旦途切れ、後の編集によると思われるが、唐突に「続航海日録」などの記述が挿入される。

挿入部分が終わると、次の「筆談断片」まで三十丁近く抹消部分が続く。但し途中に抹消されていない部分が三丁あり、これが「上海淹留日録」の6月17日の続きで、6月19日より7月4日までの部分が続く。

6月18日の条は、記述されているが、抹消されている。結果的に日記は17日から19日に日付が飛んでいる。

抹消された18日は、

「六月十八日、朝五代来談、午後与中牟田到英人所珍宝大砲ヲ観ル、城外西ノ方右ノ方図ノ如し」、と記述しながらこの「」内の記述の部分を抹消している。抹消内容は6月17日の条の日記と同様の内容であり、

原本は、「…英人所」と「珍宝・・・」の間に、倉之助と一緒に観たアームストロング砲の図と説明を記している。

『中牟田倉之助伝』では、6月18日は英人の砲台に見学に出かけており、抹消部分と日付は一致する。

倉之助の日記 (『中牟田倉之助伝』に引用された日記記述だけで、実際の日記原本は未見)の日付が正しいとすると、

6月8日、晋作はオランダ商会で短銃と地図を求め、

6月16日、晋作は(倉之助と?)米人商店に行き短銃(S&Wモデル1 七連発銃)を求め、

6月17日、晋作は倉之助を連れて米人商店に行き、倉之助は袂時計と短銃(S&Wモデル1 七連発銃?)を求め、

6月18日、前日に引き続きまた倉之助と共に外出し、晋作はフランス人商店で短銃を求め、二人で英人の砲台に行き、アームストロング砲(12ポンド)を観て、その性能に驚き、二人は大砲の図を描く。

だったのではないかという、気もする。

であれば、晋作は上海で、少なくとも3丁のピストルを入手したことになる。

但し晋作がフランス人店から銃を求めたことを日記に書き漏らしたのはおかしいし、まだこの件は確証がない。

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