京都洛東史跡めぐり

先日、白虎隊の会京都支部では「洛東 幕末の史跡を訪ねる」と題し、来年の大河ドラマ「八重の桜」にゆかりの場所をメインに史跡巡りを行った。 この日は天気予想も27度の夏日だったが、参加者6名で、3時間で16,000歩ほどの距離を皆元気で歩いた。 地下鉄蹴上駅を出発し回ったのは以下のコース。 蹴上駅南禅寺(金地院・牧護庵)~同志社共葬墓地(新島襄・八重夫妻・山本覚馬など)~金戒光明寺(赤松小三郎・会津墓地)~真如堂(石田英吉・堀河紀子墓)~京都守護職門(京都市武道センター)~三条高札場~池田屋(懇親会) 紅葉や桜の季節は多くの人で混雑する蹴上から南禅寺までの路も、季節外れのためか人もまばら。 まず最初は、南禅寺境内の金地院(こんちいん)。
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応永年間(15世紀初頭)に、室町幕府4代将軍足利義持が大業徳基を開山として洛北・鷹ケ峯に創建した。 江戸時代に、家康の信任が篤く、「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝によって現在地に移転される。 金地院にある東照宮の築地堀外に「戊辰東軍戦死者追悼碑」がある。残念ながら非公開。 ついで、牧護庵(ぼくごあん)に至る。 ここの門は六角獄舎の門を移築したと伝えられる。真偽のほどは分からないが、たしかによくみると門に使用した木材は再利用のあとが歴然としている。但し、牧護院によると門の位置は変わっているが移築したという記録はないらしい。中には、法皇寺を合併した記念の三宅安兵衛の遺志で建立した旧跡法皇子跡碑があるが、残念ながら一般には非公開。
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次に、今日の最大の目玉である、同志社共葬墓地にある新島襄と八重の墓を目指す。 登り道は二つある。 ひとつは、南禅寺の東、南禅寺塔頭の駒ヶ瀧最勝院の背後から登る道。 背後の山峡は、鎌倉時代から「 神仙佳境」と呼ばれ、霊地として知られている。 もうひとつは、熊野若王子神社横の道から登る道。 最勝院の横から登り始める。途中に修行の場などもあるが、熊野若王子神社の横道と比べると意外に緩やかで登り易い。
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30分ほどで同志社墓地に着く。 墓地入り口正面に、大きな新島襄の墓があり、左横に小さな八重の墓がある。
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来年の「八重の桜」が始まると、お墓に参る人が多くなりそうだ。        八重の墓
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       新島襄の墓
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新島襄の墓碑銘は友人の勝海舟の手になる。もともとの墓標は昭和61年(1986)に倒壊しているが、翌年再建し墓碑銘は元の墓標から写し刻んでいる。墓碑銘も墓標裏の銘も、島の字は横棒が一つ足りない。海舟の癖のようだ。 この同志社墓地には、八重の兄山本覚馬、両親山本権八・佐久、弟山本三郎山本覚馬の娘久栄など、新島夫妻ゆかりの人が多く眠っている。        兄山本覚馬
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       父山本権八、母佐久、弟三郎
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       覚馬の娘久栄
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八重の父権八会津戦争のとき城外で戦死し、弟三郎は鳥羽伏見の戦いがもとで江戸にて亡くなっている。 もう一人ゆかりの人で忘れてはならないのが、新島襄の弟子である徳富蘇峰山本覚馬の右隣に墓がある。
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蘇峰は熊本に生まれ、同志社英学校に学ぶが、新島との考え方に完全には共感出来ず中退した。 ただし新島に対する尊敬の念は生涯褪せることはなく、新島の最期も看取っている。 それぞれのお墓に手を合わせたあと、最後に村田さとの墓をお参りした。
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彼女は中村半次郎の恋人だったが、明治になって半次郎の妻帯を知り、傷心のさとは新島夫妻に出会いクリスチャンとなった。 下りは熊野若王子神社への道をイノシシに気を付けながら山を降り、そのあと、同志社墓地のある若王子山と同様、東山三十六峰に含まれる紫雲山にある寺院・黒谷光明寺に向かった。 黒谷ではまず、西雲院への途中にある上田藩士赤松小三郎の新調された墓を見る。 赤松小三郎は上田藩士で幕末傑出した洋式軍学者であったが、幕府よりの上田藩への帰藩を恐れた弟子の薩摩藩中村半次郎に暗殺されている。 西雲院では、白虎隊の会のメンバーでもある橋本御住職が法要のために我々を待っておられた。 ただちに会津墓地に向かい、会津藩戦没者115名に捧げられた「慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑」の前で読経を頂き、戦没者の慰霊に焼香する。
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「慰霊碑」のほぼ中央に八重の弟山本三郎飯沼貞吉の叔父飯沼友次郎の名を確認しながら手を合わせた。 この慰霊碑の前では、昭和3年11月17日に慰霊祭が行われた。 黒谷光明寺では、この年10月7日に、勢津子妃殿下誕生を寿ぐ「光明寺奉告大法會」が催されたあと、 11月17日に、「御大禮」(昭和天皇即位式)が11月京都で行われたのに合わせて、 松平保男(会津松平家第12代当主、勢津子妃の養父)、松平恒雄(勢津子妃の実父)、山川健次郎などを迎えて、「臨時の法會」と「先輩諸名士歡迎會」が西雲院で開かれた。 慰霊碑を前にした集合写真(八重は前列左から三人目、西雲院所蔵)
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西雲院では、同じ頃に書かれた八重の書(二幅)を拝見した。 「明日能夜盤 何国乃誰可 な可むら舞 な連し御城に 残須月可計」   明日の夜は 何国の誰か 眺むらん  慣れしお城に 残す月影
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「いくと世可 ミねに可ゝれる 村雲能 はれて嬉しき 光り越そ見る」  幾年か   峰にかかれる  群雲の 晴れて嬉しき 光りをぞ見る
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二幅の書は、どちらも「八十四才 八重子」と記され、裏面には、それぞれ簡単な解説に添えて「昭和三年 拙筆 新島」の文字がある。 前者は、「戊辰長月二十あまり三日の夜 さしのぼる月のいとさようなるを見て」とあり、鶴ヶ城開城前夜に八重が白壁に刻んだ和歌として伝わる。 後者は、「御慶事ききて」とあり、昭和3年9月28日に勢津子姫(容保の孫)が秩父宮妃となった喜びごとを歌にした。八重の和歌のなかでも、初期と晩年を代表する二作といえる。 書を拝見したあとに御住職を囲んで記念撮影。
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西雲院をあとにして、真如堂に向かう。 ここでは、石田英吉と堀川紀子のお墓に参った。
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石田英吉は、明治以後の華々しい経歴を待たずとも、幕末でもなかなか稀有な経歴の持ち主である。 土佐藩の医師の家に生まれ、適塾で学び、吉村虎太郎に心酔して天誅組に参加し、敗れて長州に落ち、禁門の変で負傷し七卿とともに再び長州に落ち延び、高杉晋作と共に奇兵隊創設に貢献し、ついで、龍馬と共に亀山社中海援隊の結成に参加し、下関海戦ではユニオン号の指揮を執り戦果を上げる。 天誅組の首領中山忠光が暗殺されたときは、病死と言い張る長府藩に対し、死因の確認のため墓より掘り出すように迫るなど、なかなかの人物であった。
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堀川紀子は、岩倉具視実妹孝明天皇後宮にはいり,寿万宮(すまのみや),理宮(ただのみや)の2皇女を生んでいる。 孝明天皇の死因について、「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の毒殺説がもてはやされた時期がある。 しかし今は、医師の書いた「御容態書」の分析により「順調な回復の途上での急変」ではなく、紫斑性痘瘡が重くなり崩御したとの説が大勢を占めている。 真如堂からは、平安神宮を経て、京都市武道センターの武徳殿の裏門にあたる「京都守護職門」を見学した。
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この門は、京都所司代門との説もあるが、実は守護職門である確証もない謎の多い門である。 明治期に京都守護職の門前に、今の日赤病院の辺りに剣道の稽古場が作られたことがある。千葉重太郎なども教授に来ていたといわれている。 従って今の場所に、武道センターの前身ができる時に移築したという可能性はあるが、これも今は確証がない。 「京都守護職門をみたあと、三条大橋を渡り、高札場の後を見て、 「池田屋(食事処)」で懇親会をもち、京の夕べを楽しく過ごした。 注意:一部の写真を消失したため、旧写真で代用した写真があることをお断りいたします。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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