品川歴史館特別展と上野散策

小学校の同窓会で上京したついでに、昨日、品川歴史館の特別展 「品川御台場 -幕末期江戸湾防備の拠点-」 を拝見し、久しぶりに上野谷中を散策してきた。
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小生は小学校は3回転校した。 前橋市立桃川小学校に入学し、川崎市立登戸小学校、新宿区立落合第三小学校、そして再び登戸小学校へ転入しここを卒業する。 前回、2007年の還暦記念として開かれた同窓会では48年ぶりに担任の恩師と同窓生とにお会いしたが、懐かしい顔ばかりであった。皆いろいろな人生を歩んできたが、顔を見ると半世紀前の記憶はすぐによみがえった。 今回は恩師の傘寿のお祝いを兼ねた4年ぶりの同窓会で、54名のうち19名が集まった。誠に楽しい会で、2年後の開催を約してお別れした。 幹事役の皆さん、有難うございます。 3週間前に咸臨丸子孫の会の静岡旅行で韮山を訪れた際に、品川歴史館の特別展開催のポスターを見ていたので、歴史館を訪ね特別展を拝見してきた。
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展示は大きくは以下の通り。 1.迫り来る対外危機と沿岸警備体制の整備 2.品川御台場の設計に至る経緯 3.ペリー来航と江戸湾防備の拠点・品川御台場の築造 4.品川御台場の築造と地域社会 5.江戸湾防備の拠点・品川御台場警備体制の確立 6.品川御台場の保存とこれから なかなか意欲的な企画で、多角的な視点と200点ほどの史料によって品川御台場を紹介している。 鎖国とともに長崎で進められてきた海防体制が、18世紀末のロシアの蝦夷進出や文化5年(1808)のフェートン号事件を契機に大きな転換を迎え、やがて江戸湾防備や大阪湾防備の手本となっていく様子が理解できる。 「海国兵談」に見る仙台藩林子平の先進的な考え、海防の大きなきっかけとなったフェートン号の図、危機意識の高かった江川英龍と鍋島斉正の軍事交流を現わす史料群、洋式大砲を造る鍋島藩反射炉韮山反射炉との関係、品川御台場の手本となる長崎台場での海中工事の成功と小田原台場の砂洲基盤地域での台場築造事例、品川御台場の計画と実際の設計・築造、品川警備体制と各藩の関わり、江戸湾防備~から箱館湾・大坂湾防備への展開などなど、 当時の日本の海防への取り組みを目の当たりにするような展示内容となっている。 図録も160頁と厚く、解説が秀逸でサービス精神旺盛な内容。展示よりも100点ほど多く内容が豊富だが、実物を目で見たほうがもちろん迫力はある。 企画実施された冨川武史学芸員を始め協力された皆様に感謝申し上げます。大変勉強になりました。 上野谷中で回ったコースは以下の通り。 旧因州池田屋敷表門--> 大雄寺(高橋泥舟墓、小杉雅之進墓)--> 谷中墓地(徳川慶喜墓、勝精墓)--> 寛永寺(根中本堂、春性院、寛永寺旧本坊表門)   旧因州池田屋敷表門 江戸末期のかなり大きな門で、屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えている。もともとは、丸の内大名小路にあったが何回か移築され今に至る。大名表門として最も格式が高い。幕末時の因州鳥取藩主は、慶喜の腹違いの兄、池田慶徳鳥取藩池田家は外様大名ではあったが準家門大名の扱いであり、品川御台場警備においては司令塔的な役割を果たした。 龍馬がらみでは、鳥取藩で剣術指南役をしていた千葉定吉、長男重太郎、そして千葉佐那と結婚した鳥取藩士山口菊次郎などがこの門を潜ったはず。
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大雄寺 長昌山と号し、慶長9年神田土手下に創建したが万冶元年に現在地へ移転した。ここでは高橋泥舟と小杉雅之進の墓をお参りした。
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高橋泥舟の墓
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泥舟は槍の名人として世に称賛され、安政3年(1856年)21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。 慶応4年(1868)に、勝海舟が徳川家処分の交渉のため西郷隆盛への使者として、その誠実剛毅な人格を見込んで選んだのが泥舟だった。しかし泥舟は慶喜から頼られていたため、江戸の不安な情勢のもとでは慶喜の側を離れることができず、代わりに義弟の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦、鉄太郎が見事にこの大役を果たした。 海舟は、後年「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と泥舟を評している。槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛している。 小杉雅之進の墓
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墓には、小生の高祖母としの弟、雅三と改名した雅之進夫妻と養子の辰三夫妻が眠っている。 雅之進は、長崎海軍伝習所の三期生で、咸臨丸の蒸気方見習いとして渡米し、帰国後に軍艦操練所の教授を務める。 鳥羽伏見の戦いの後、慶喜・容保らが江戸に帰るときの開陽丸の機関長であり、箱館戦争では江差奉行並を務めたが、五稜郭榎本武揚とともに降伏する。 雅之進の養子辰三は、仙台藩士細谷十太夫の三男。 烏組を率い西軍を恐れさせた父親の十太夫は、晩年、仙台龍雲院に葬られている藩士林子平を慕って僧となり、住職として戊辰戦争日清戦争戦没者を弔った。荒廃した寺の復興に尽力したが果たせなかった。 辰三は、神戸製鋼所の前身小林製鋼所を設立し、後に鈴木商店の資本の入った神戸製鋼所の初代技師長を勤める。雅之進の死後、辰三は亡父十太夫が復興に尽力した龍雲院へ匿名で当時の金で2万円を寄付し、復興させる。 大雄寺を後にし、続いて谷中墓地に至り、 2日あとの11月22日が命日になる慶喜の墓をお参りする。慶喜は大正2年(1913)77歳で亡くなる。
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慶喜の墓の横と前には徳川家の墓があり、また近くに勝家に養子に入った、型破りで有名な、慶喜の10男精の墓もある。こちらの墓も同じ土饅頭の形をしている。
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ついで、慶喜が謹慎した寛永寺にく向かう 写真は、上野寛永寺大慈院の入口と大慈院のあった場所。
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現在の本堂(根本中堂)は、寛永寺の子院・大慈院があった敷地に、明治12年(1879)、川越喜多院の本地堂を移築している。 慶喜は、上野戦争前夜の慶応4年(1868)4月まで大慈院に謹慎中で、山岡鉄太郎ら精鋭隊70人余りと見廻組50人余りが警護に当っていた。同月中に寛永寺を出て水戸弘道館に移る。 境内には明治44年に建立された上野戦争碑記が建っている。
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中根本堂の前には、江戸開府400年記念に造られた東叡山寛永寺の縁起の説明版が立っている。 簡単な移り変わりが描かれている中に、幕臣彰義隊に参加し黒門で被弾し戦死した小生の高祖父、河島由路の屋敷の位置がわかる地図が描かれていた。
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上端中央に、「河島」と見える
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大慈院の後は、彰義隊に擁立され上野戦争に巻き込まれた寛永寺貫主・日光輪王寺門跡、後の北白川宮能久親王の関係場所を訪ねた。 東叡山春性院 ここは、明治14年8月に赤坂に北白川宮邸が着工した際の第宅工事のために、元輪王寺宮であった能久親王が、15年7月26日から11月19日まで一時的に移り仮住まいした場所。御付であった三吉慎蔵がよく訪ねた所でもある。
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寛永寺旧本坊表門 この門には上野戦争時の弾痕が残されているのだが、残念ながら、修復保存工事のため、表門を拝見するのは叶わなかった。
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上野の山からは、完成間近いスカイツリーがよく見える。
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このタワーからは、輪王寺宮彰義隊が逃走した経路が一望できるのではないかと思いをいたしながら、上野を後にした。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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