酢屋と龍馬

昨日、京都府庁旧本館連続講座Ⅳ「幕末歴史秘話・土佐編」を拝聴してきた。 講師は、材木商 十代目酢屋嘉兵衛(中川敦子)氏で、テーマは「酢屋と龍馬」。 なかなか聞けないお話を伺った。
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酢屋嘉兵衛は、山城から出て、材木商として享保6年(1721)に京都三条で創業し、以来同じ地で今日まで290年つづく老舗。 創業した享保6年は、徳川吉宗享保の改革の一環として江戸の都市政策を実施していく一方で、庶民の要求や不満の声を直接訴願の形で募るための有名な目安箱を設置した年。 「酢屋」は、材木業を営んだ店の初代嘉兵衛からの屋号だが、なぜ材木商の屋号が「酢屋」なのかは今となっては分からない。おそらく前の持ち主から譲られたものと思われる。 「酢屋」がある三条は、周りに彦根藩土佐藩など各藩の藩邸が建ち並び、また、東海道の始点終点であり、かつ高瀬川のほとりのため伏見・大坂との連絡もよい (但し東海道は秀忠、家光の頃は大阪まで延伸し、東海道57次になっているので、始点終点ではない)。 東海道の陸送と高瀬川の水送の荷の上げ下ろしの場でもあり、江戸と大坂とを結ぶ交通の要所に位置する。「酢屋」の向かいの京劇は、かって高瀬川の5番目の舟入があり、高瀬舟がしょっちゅう出入りしていた。 140年後の5代目嘉兵衛の頃になると店も大きくなっていた。 そして幕末、6代目嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より大坂から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送の権利を得て、運送業も兼業するまでになった。 龍馬との出会いは、6代目が各藩に出入りする中で、頼まれて龍馬を宿泊させた事が発端らしい。 各藩との交渉・折衝や、伏見・大坂との連絡にも格好の地でもあったので、龍馬も「酢屋」を気に入り身を寄せたと思われる。慶応3年(1867))6月24日付けの姉の乙女宛の書簡の中で、酢屋に投宿している旨を伝えている。 この頃、龍馬は大政奉還の環境作りをしており、国をひっくり返そうと画策する龍馬や海援隊士を匿うことは、150年続いた店を失うリスクがあったが、6代目は龍馬の活動に理解を示しその活動の援助に力を注いだ。 龍馬は家の者から「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋を住まいとした(今はギャラリー龍馬として使用してる)。 酢屋には、当時の面影を残す二階の格子より龍馬が向いの舟入にむけてピストルの試し撃ちをしたという逸話が伝わる。 又、この家には海援隊京都本部が置かれ、陸奥陽之助、長岡謙吉等数多くの隊士が投宿していた。 幕末から65年経った昭和8年(1933)、8代目酢屋嘉兵衛が店の屋根を高く上げる改築工事を行った際に、黒船日誌、海援隊日誌が梁の上から見つかった。 8代目は、龍馬暗殺当時に駆けつけた田中光顕伯爵と会い、日誌を見せる。日誌には龍馬が暗殺された慶応3年11月15日から16日、中岡も亡くなり実葬した17日等の記事もある。龍馬暗殺の犯人に関する情報集めに、隊士たちが奔走する様子が細かく書かれている。 この日誌に、91歳の光顕は「涙痕帳」と名付けた。 日誌によると、11月15日当日は、酢屋には隊士は2名がいるだけで、他は京都周辺に出払っていた。 龍馬遭難直後の天満屋事件の時もこの酢屋の二階の一室に隊士が集まる。12月7日、陸奥陽之助天満屋事件を引き起こし16名で押し入るが、この時6代目が送り出したという。維新後、陸奥宗光は「酢屋」の家を訪れた時、当時を思い、感慨にむせんだと言われている。 慶応4年、海援隊は、解散に際し黒船日記、海援隊日誌を梁に残す。6代目は梁に残したことを誰にも伝えず、ただ、この家を売ってはいけないと言い残しただけだったという。 現在龍馬の書簡は139通現存しているが、その中で一番多いのが姉の乙女宛て。 慶応3年6月24日には、きわめて忙しい中で、5mの長さの手紙を書いている。 6/9夕顔の中で船中八策、6/15大坂から京へ、6/22船中八策をもって酢屋に入る、6/23薩土盟約に同席、6/24早朝から手紙を2通書き、薩摩屋敷へ、6/25岩倉・三条に会う・・・・・ 龍馬は、国を動かす最大の仕事できわめて忙しいときでも、家族に宛て長文の手紙を書く。自分と家族との繋がり、絆を大事にしているのがわかる。 酢屋では、自分が龍馬になったつもりで書いた手紙(意見)を募集し始め、今年で19回目になる。 龍馬が亡くなった33歳までという年齢制限がある。 講演会場では今年の優秀作品の紹介があったが、8歳の少女の書いた龍馬になって書いた手紙はなかなかの秀作だった。 今年は東日本大震災があった年でもあり、今までとは異なる視点からの手紙が多かったようだ。 話の内容もよく調べられており素晴らしいものであったが、1時間半の講演の最後まで声にはりがあってメモも見ずに細かなことまでよどみなく話された。見事としか言いようがない。ありがとうございます。 講演会終了後、京都山口県人会会長の中村正氏、友人で萩高出身の金馬房雄氏、和田洋氏と懇親会を持った。 和田氏は米国に居住されており初めてお目にかかる方。今年6月にペリー提督兄の子孫が来日し萩で講演をされたが、その仲立ちをされた。 ペリー氏の講演の記事は http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2011/0626/4p.html 昨年サンフランシスコで開催された日米草の根サミットベイエリア大会に参加され、そこで、マッシュー・ぺりー提督4代目のDR.マシュー・ペリー氏を知る。安政元年(1854)、吉田松陰は門下生の金子重之助とともに伊豆下田に停泊中のペリー提督の旗艦ポーハタン号に乗り込み密航を企てたが失敗する。萩高出身の和田氏は、ペリーと松陰の2人に直接の交流はないが、松陰ゆかりの人物の子孫として萩を訪問して講演をしていただこうと熱心に働きかけを行ってきた。 日米草の根交流サミットは毎年日米で交互に開催されているが、今年の高知大会が6/27~7/4の日程で開催されるのに合わせ、6/25萩博物館での講演の実現にこぎつけた。和田氏はその通訳も務められた。 初めてお会いするが、遣米使節150周年の昨年、日米で行われた様々なイベントでの共通の知人もいて、なかなか楽しい懇親会だった。
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