長州・長府

朝ドラ「らんまん」と第二回内国勧業博覧会

朝ドラ「らんまん」はもちろん史実通りではないがなかなか面白い。次回は、明治14年(1881)開催の第二回内国勧業博覧会に造り酒屋の当主として日本酒を出品するため上京するところが描かれるようだ。実際には、このとき19歳で、顕微鏡や書籍を購入するため…

今日は長府藩士・三吉慎蔵の祥月命日

三吉慎蔵は世紀の改まった明治34年(1901)に71歳で長府で永眠した。慶應2年(1865)正月の龍馬と生死を共にした寺田屋遭難から35年後になり、今年は没後122年目になる。 明治11年末の慎蔵 晩年の写真 慎蔵の晩年の日記は、字がミミズがのたくったかの…

永井路子さんを偲んで

永井荷風と、永井智子と永井路子(1925年3月31日-2023年1月27日)のお話 明治時代に長府毛利家の屋敷があった麻布市兵衛町に、時代は下って大正8年(1919)に永井荷風(本名永井壮吉)が偏奇館を新築し移り住む。 そして旺盛な創作活動のなかで、才能豊かな荷…

寺田屋遭難と初代伏見町長・江崎権兵衛

坂本龍馬を顕彰した江崎権兵衛は、伏見の事業家であり初代伏見町長を勤めた人物だが、その履歴を調べてみた。 弘化元年7月23日、先代江崎権兵衛の次男として、字家書に生まれる。幼名は源三郎。 初代は江州坂本在仰木村出身で、330年前に伏見両替町に来住し…

龍馬が隠れた材木納屋

龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏と寺田屋で戦い隙を見て逃走した途次、隠れた材木納屋がある。 ただし鳥羽伏見の戦いで焼失しているので、写真の材木納屋は当時のものではない。 この材木小屋について、伏見奉行所の報告には、 「村上町財木渡世 近江屋三郎兵衛…

寺田屋からの逃走ルート5 薩摩藩伏見屋敷

以前京博にて、「大政奉還150年記念 鳥羽伏見の戦い」展を拝見した。 僕にとっては重要な史料が多いが、目的は、 ①幕末の伏見の地図 ②薩摩藩伏見屋敷の平面絵図 の確認。 展示場に入るとすぐ後ろから、宮川禎一上席研究員が立命大の刀女子2名を案内してやっ…

寺田屋からの逃走ルート4

寺田屋事件での材木納屋から薩摩藩伏見屋敷までの逃走ルートを調べている。 動けない龍馬は材木納屋に隠れ、三吉慎蔵が単独で伏見屋敷を目指した。 ところで、慎蔵は伏見市中の地理に明るく、伏見屋敷の場所を正確に知っていたのだろうか。 伏見は、京と大坂…

寺田屋からの逃走ルート3

寺田屋の裏の車町の通りから、村上町の材木納屋までの逃走ルートを考えてみたい。 まず幕末時の地図を確認する。(但し地図は、京都府紀伊郡伏見役場が後に作成) 右端(東)に「御役屋敷」と表示して伏見奉行所がみえる。 過書町や村上町は材木商いが活発で、…

寺田屋からの逃走ルート2 材木納屋

龍馬と慎蔵が避難し隠れた材木納屋を確認したい。 二人が隠れたという材木納屋があった辺りの写真。左側に大手橋(昭和15年11月竣工)が見える。 東京大学史料編纂所所蔵の写真。左側にも納屋がみえる 龍馬は書簡に、 寺田屋の裏の住家を破ってから、「町に…

寺田屋からの逃走ルート1 寺田屋

坂本龍馬と三吉慎蔵が逃走した経路を調べている。 まずは出発点の寺田屋のその敷地について。 鳥羽伏見の戦いで焼失した寺田屋について、その敷地が実際に記録にあらわれるのは明治になってからなので、これから調べてみる。 江崎権兵衛が明治26年5月27日に…

慶應2年1月23日は寺田屋遭難があった日

157年前の今日が、龍馬と三吉慎蔵の寺田屋遭難の日 時刻は旧暦の慶応2年正月23日八ツ時頃(午前2時頃)。 当時の1日は日の出から日の出までなので23日。今風には24日午前2時頃。 西暦では1866年3月10日。要は事件が起きたのは冬ではなく…

長府藩士三吉慎蔵の妻

伊予70歳ころ 一昨日は、三吉慎蔵の妻伊予の祥月命日伊予は長府藩士・正村喜三郎の三女で、明治44年(1911)1月に没している。享年71才。慎蔵は小坂(おさか)土佐九郎の次男で、安政4年(1856)3月に三吉十蔵の養嗣子となる。その翌安政5年1月23日に、…

TV放送(ロマン?)と史実

先日、「カメラを止めるな!」のTV放送を拝見したので。 その映画の中での監督役の俳優が「三吉慎蔵」役で登場している2019年正月放送の「坂本龍馬暗殺の実況中継」の録画をあらためて観てみた。

毛利家書状 原本初確認

貴重な史料が発見された。 戦国時代、中国地方を治めていた毛利家が「中国攻め」の際に家臣の湯原春綱に宛てた書状など200点以上の書状の原本で、 書状は、1560年代から1580年代にかけて、毛利元就をはじめ、毛利輝元や吉川元春などが送ったものとのこと。 1…

僕と安倍晋三夫妻との関わり

誰にも先祖がいる。 いなければ今の自分はいない。 幕末の頃であれば高祖父母の時代であり、4代前になるので2の4乗、16人いることになる。 その16人の中には、僕の場合、旧長府毛利家に仕えた小坂(おさか)家、三吉家の人々がいる。 長府毛利家での家系…

幕臣一家

5月15日は、154年前の慶應4年に上野にて戦争のあった日になる。 この日、幕臣の高祖父・河島由路は16歳の長男由之と一緒に彰義隊に参加して黒門口で戦い戦死している。 したがって旧暦の5月15日前後に行われる彰義隊慰霊祭は、僕にとっては高祖父の河島由路…

八・一八の政変と三吉慎蔵

攘夷の期限が文久3年5月10日と決まったが、5月10日の攘夷期限には長州のみが攘夷を行い他には同調する藩がなかった。 下関海峡を挟んだ小倉藩も砲撃に協力せず、両岸からの砲撃が成立しないため、砲弾が届かず外国船に決定的なダメージを与えられない。 従っ…

東京を整備した山尾庸三

東京築地にある「訓盲院発祥の地」碑からの連想。 明治になってから洋風の建造物が作られていくが、初期の建築には幕末に活躍した人物の名がよく出てくる。 訓盲院の建築は、お雇い英人のジョサイア・コンドルの設計になるが、以下の経過をたどった。 明治8…

いろは丸事件

三吉慎蔵宛ての長府藩士・印藤聿の書簡がある。 「坂本先生が今朝、下関に帰ってきたそうです。 夕刻までには出帆し、上方へ登るとのこと、伊藤九三より申してきました。 龍馬のために大小(本差と脇差)を送るよう伝言がありました。 伊藤からの使いに持た…