八・一八の政変と三吉慎蔵

攘夷の期限が文久3年5月10日と決まったが、5月10日の攘夷期限には長州のみが攘夷を行い他には同調する藩がなかった。 下関海峡を挟んだ小倉藩も砲撃に協力せず、両岸からの砲撃が成立しないため、砲弾が届かず外国船に決定的なダメージを与えられない。 従って長州は、攘夷を行わない小倉藩に対し処分を行うよう、朝廷に働きかけていく。 その役割を担ったのが、萩藩士小田村文助(伊之助、後の楫取素彦)、長府藩士三吉慎蔵、磯谷謙蔵だった。

長府藩御家記『毛利家乗』には、 文久三年七月二十三日 「是日藩士磯谷謙蔵三吉慎蔵等ヲ京師ニ遣ル 攘夷ノ事ニ関スルナリ」

〇『三吉慎蔵日記』には、文久3年7月23日に磯谷謙蔵、小田村文助同道にて京都へ出張を命じられた、とある。 「一筆申入候御自分儀様子次第山口ヨリ直様京都ヘ被差登候儀モ可有之候間右様可被相心得候磯谷謙蔵儀今日御仕出其元ヘ被差越候ニ付委細同人ト可被申談候恐々謹言 西 蔵人 三 内蔵介 三吉慎蔵殿 右小田村文助同行ニテ登京ノ上御用向尽力取計方可致旨也」

藩士小田村文助、長府藩士三吉慎蔵、磯谷謙蔵の3人は、京都にて朝廷に働きかけ、8月18日に朝廷から朝命を受けることになっていた。 ただ、小田村文助は、大和行幸に長州から随行するようにとの朝命の内意を受けたので、協議のため直ちに長州へ帰国して行った。 そして、8月18日の当日、朝命を受け取るその日に、三吉慎蔵、磯谷謙蔵は八・一八の政変に遭遇したのだった。286933694_4913491675445201_5442598881830067222_n.jpg 〇『毛利家乗』に、 文久三年八月二十五日 「藩士村上衛士磯谷謙蔵三吉慎蔵等京師ヨリ帰ル 謙蔵慎蔵ハ前月二十四日宗家ノ士山田亦助小田村素太郎等ト小倉藩ノ救援ヲ辞スル事ヲ弁セント欲シ行テ京師ニ在リ本月十八日将サニ命ヲ学習院ニ受ケントス変ニ遭テ休ム是ニ至テ皆ナ帰リ報ス」 三吉慎蔵と磯谷謙蔵は、八・一八の政変をみて、いち早く萩藩主・長府藩主に注進のため直ちに帰国し、8月24日萩藩主に拝謁し第一報を報知し、翌8月25日長府藩主に報知している。 先に帰国していた小田村文助は政変をこのとき知ったのだった。 慎蔵は、この急変を急報したことによるのか、9月15日に一代馬廻に進み、近侍扈従小納戸役に任じられている。

 

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

 

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