維新の記憶 1869年 東京招魂社の創建

2月20日の「維新の記憶」は、-1869年 東京招魂社の創建- 見出しに大きく「長州の思想 新政府踏襲」とある。
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そして記事では、簡潔に、靖国神社の源流が京都霊山の霊明神社であることを明示している。 ①京都霊山の霊明神社が、幕末に神葬祭を始めたこと ②霊明神社が、安政の大獄で殉難した志士たちの神葬祭を営んだこと ③明治新政府は、最初、霊明神社を官幣招魂社としたこと ④東京遷都のため別に新たに東京招魂社を創るにあたり、彰義隊の霊の彷徨う上野は避け、九段の地を選んだこと ⑤明治12年に東京招魂社を靖国神社と改称したこと 霊明神社は、幕末時代に戦死・変死した防長藩士神葬祭を執り行ってきた。 ただ、重要なことは長州だけでなく、たとえば会津藩士などの神葬祭も行っていることだ。 ところで、 霊明神社神主・三世村上丹波源都平(くにひら)の著述『講説稿本』によると、 「高倉二条邊ニ竹御所内ニ吉田玄蕃ト申ス人ガ有リマシテ是ガ亦至テ精義勤王之人ニテ有シガ是ガ船越先生之石碑ヲ初メテ當山ニ建テラレマシテ御霊祭リヲ致サレマシタノガ精義ノ神霊ノ祭リ初メナリ」とあり、 文久2年(1862)11月18日に、吉田玄蕃が祭主となり長藩50人程が参詣し萩藩主からも使者が派遣されて神葬祭(但し実葬ではなく、遺物を納めた)を行っている。 つまり、村上都平に従うと、多くの幕末志士が眠る霊山での神葬祭は、防長の清末藩出身の船越清蔵から始まったことになる。そして明治27年の吉田玄蕃の下記書付によれば、吉田玄蕃が神霊祭を行ったのは久坂玄瑞の依頼によることがわかる。
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そしてその後、記事にもある通り、文久2年12月14日に安政の大獄以降の国事殉難者を祀る「報国忠死の霊魂祭」が行われる。 船越清蔵は、今では忘れられた人物である。 時代の先を行く内容の著作や活動時期からみて、おそらく幕末当時は、梅田雲浜と並び称せられてもおかしくはない国学者だったはず。 ただ雲浜が明の人とすれば、清蔵は陰の人物だった。 尊王攘夷の立場に立つが、活動は専ら、著作であり、朝廷内など隠密の活動を主としていた。 名は松門には聞こえていて、松陰は船翁と尊称し、門下生は上京の折には大津の清蔵を訪ねていることが分っている。 安政の大獄が始まる渦中の安政5年末に、逃れて長州へ潜かに帰国する。 安政6年(1859)4月1日付の久坂玄瑞宛ての高杉晋作書簡には、「〇清水浪人先生来萩之由、何早クトコカ在向へ引籠る宜舗かランカト奉愚察候」(船越清蔵先生が萩に来られたとのこと、何れ早く何処かへ引き籠るのが宜しいのではないかと思います)とあり、当時の切迫した状況が見て取れる。 清蔵はのちに周防国右田に塾を開き、また清末育英館、長府敬業館、萩明倫館にて講義を行っていく。 文久2年(1862)萩明倫館に招聘されていた清蔵は、藩主毛利慶親に歴史の御進講をする。 その時に、毛利家の始祖・大江広元は朝廷を守るべき貴族でありながら鎌倉幕府を輔けて朝廷衰微の原因となった論を述べる。 守旧派の萩藩士はこれに激昂し、郷土へ帰る清蔵を送る途中で毒を盛り、清蔵は美祢郡絵堂で倒れて急死してしまう。 ところで、三吉慎蔵日記の安政4年(1857)6月5日の項には、  養母之續清末御家中舩越教果申候処伯父ニ相當リ候ニ付  忌中届井上蔵主ヘ届候忌中五日間相愼候事 とあり、 慎蔵は、船越教の前日4日の死去を書き記し、一家は5日間喪に服している。 船越教は、清蔵が国事に奔り家を継がないため、清蔵の妹に婿入りし船越家を継いだ人物。 ただ日付からも分かるように、清蔵よりも早く死んでしまう。 船越清蔵は、三吉家に養子に入った慎蔵から見ると、伯父の一人。 すなわち、養母喜久の兄教の義兄となる。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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