「花燃ゆ」6月7日放送 久坂玄瑞一家

今回のドラマでの関心事は久坂玄瑞とその家族のこと
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小田村伊之助と三吉慎蔵とは早くから交流があるが、玄瑞と慎蔵とは明確ではない。 伊之助と慎蔵は、文久3年(1863)の八・一八政変の1ヶ月ほど前に一緒に京都へ出張する。それ以後、二人は親密な中になり、明治以後も交流は続いていく。 玄瑞と慎蔵とが、直接会ったとの史料は今はない。ただ、可能性としては何回か接触はあったように思う。 慎蔵は、玄瑞がその現場にいたときの ①文久3年4月、中山忠光卿が馬関に下向したときに、警護をしている。 ②文久3年5月、攘夷決行のとき、城詰めではあったが、諸台場の軍議に預かっている。 ③文久3年8月、八・一八政変の当日、京都にいて政変に遭遇している。 ④元治元年4月から翌年まで、山口在番役として、政事堂に出入りしていた。 二人が会っているとすれば、上記の各々の場面で、文久3年4月~元治元年4月までの1年間ほどの間かと思う。 今回のドラマでの関心事は、玄瑞が小田村伊之助の次男久米次郎を養子に欲しいと望んだこと。妻文への手紙で「小田村の次男を養子にする約束をした」と書き送っている。 そして小田村久米次郎(道明)は玄瑞の養嗣子になるが、玄瑞の実子秀次郎の出現により、明治12年にまた復籍して、楫取家に戻り、楫取道明となる。 つまり久坂家は、秀次郎が相続し、文はその母になる。 この間、三吉慎蔵は明治10年宮内省に奉職し北白川宮能久親王の御付になるが、翌11年に御用便のため、北白川宮邸と通りを隔てて隣の仲の良かった楫取素彦邸の久坂道明長屋に引っ越す。 そしてこの年、楫取素彦邸敷地内に自宅まで建築して転住し、明治17年までここで暮らすことになる。 そして転居のため、17年にはこの家を道明に売却している。      楫取素彦邸があった場所
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     楫取素彦邸があった場所
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    北白川宮邸があった場所、のちに李王家の屋敷となる
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久坂玄瑞との交流は明確な史料は未見だが、養子になった道明とは上記のように楫取素彦を介し接点がある。 玄瑞と慎蔵との交流の史料の発見は、従ってこれからの課題となる。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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