楫取素彦と三吉慎蔵

大河ドラマ「花燃ゆ」のこれからの放映で、楫取素彦の妻寿が明治14年1月に死去する場面がある。 亡くなった場所は、東京の麹町平河町6丁目22番地の楫取素彦敷地内の粂次郎 (このときは道明)邸。 このとき三吉慎蔵は、ドラマには出てこないが、ごく近くにいた。         写真は、当時の三吉慎蔵
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                     楫取素彦は、山口から出て明治5年(1872)に地方官として出仕し足柄県参事となる。明治7年(1874)に熊谷県権令となり、明治9年(1876)に熊谷県令になったあと熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令となる。 足柄県参事になったときか、熊谷県令になった時分に、平河町に地所を取得し、その敷地内に次男の久坂道明の屋敷がある。 三吉慎蔵が、楫取と初めて面識を得たのは何時かは不明だが、 記録に明確に残るのは、 『三吉慎蔵日記』の文久3年(1863)7月23日の条に、 「一筆申入候御自分儀様子次第山口ヨリ直様京都ヘ被差登候儀モ可有之候間右様可被相心得候磯谷謙蔵儀今日御仕出其元ヘ被差越候ニ付委細同人ト可被申談候恐々謹言           西 蔵人           三 内蔵介      三吉慎蔵殿 右小田村文助同行ニテ登京ノ上御用向尽力取計方可致旨也」 とある。 5月10日の攘夷実行の際に、馬関海峡を挟んだ小倉藩が砲撃を実施せず協力をしなかったことについて、朝廷に対して訴えるために共に上京している。 上京後の事は、『毛利家乗』の文久3年8月25日の条に記述がある。 「藩士村上衛士磯谷謙蔵三吉慎蔵等京師ヨリ帰ル 謙蔵慎蔵ハ前月二十四日宗家ノ士山田亦助小田村素太郎等ト小倉藩ノ救援ヲ辞スル事ヲ弁セント欲シ行テ京師ニ在リ本月十八日将サニ命ヲ学習院ニ受ケントス変ニ遭テ休ム是ニ至テ皆ナ帰リ報ス」 着京後小田村と協議(大和地方への行幸に従うため、萩藩主に上京せよとの朝命の内意がある)し、小田村は、内意を伝達のためすぐ8月13日に帰国する。 慎蔵は残るが、八・一八の政変に遭遇し、直ちに帰国、8月24日に山口にて萩藩主に拝謁し政変を報知し、翌25日長府にて長府藩主に報知している。 この功により、9月15日に一代馬回りの家格に遇される。 翌年の元治元年(1864)4月24日に、慎蔵は山口在番役を命じられる。 萩の政事堂は廃され、昨年末より山口に一本化されており、以後維新まで、小田村との会合が散見される。 たとえば、 慶応2年(1866)3月12日、慎蔵は寺田屋遭難後に、山口政事堂にて小田村素太郎に面会し、内命でもあった時勢探索(京都政局、薩摩藩内情、薩長盟約の行方など)を詳細に報知する。またこの日は、小田村より別段の尋問の儀があり同氏宅に至っている。 三吉慎蔵と楫取素彦のと親交は明治になっても続いていく。 それは以下の例からも窺うことができる。 明治10年(1877)に、楫取の妻寿子は中風にかかり肋膜を併発したため、平河町の次男道明邸にて療養する。 同じ明治10年9月に、三吉慎蔵は宮内省に出仕し御用掛を仰せつかり、北白川宮御付となる。このときは、長府毛利家の家扶を勤めており、自宅は愛宕町2丁目1番地にあった。 しかし、旧紀州藩中屋敷の跡にある北白川宮邸へ通うのは不便であるため、明治11年2月16日に、北白川宮邸と道路を挟んで向かいにある平河町6丁目22番地の楫取素彦邸内の久坂道明住所の長屋に転居し、そしてさらに敷地内に自宅を建て始める。     楫取素彦邸のあった辺り
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この頃のことを、慎蔵とは家族で親交のあった乃木希典は、『乃木希典日記』に「三月七日登営路馬車に逢、落馬。退路三吉慎蔵を訪、久坂に至る」と書いている。 明治12年(1879)、玄瑞の遺児・秀次郎が久坂家を継いだため、次男道明は楫取家に復籍する。 同じ年、12月1日に、楫取素彦邸敷地内に自宅が完成し、慎蔵は転住する。 明治14年1月30日に、楫取寿子は楫取道明邸にて病死する。 この前後10日ほど『三吉慎蔵日記』には何の記述もないが、同じ楫取邸敷地内にいる慎蔵は、寿子の葬儀に参列しているはずなのである。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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