永井路子さんを偲んで

永井荷風と、永井智子と永井路子(1925年3月31日-2023年1月27日)のお話

明治時代に長府毛利家の屋敷があった麻布市兵衛町に、時代は下って大正8年(1919)に永井荷風(本名永井壮吉)が偏奇館を新築し移り住む。

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そして旺盛な創作活動のなかで、才能豊かな荷風昭和13年(1938)に作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演する。これが日本人の創作した本格的な歌劇上演の試みとして話題を集めた。

このときの主役がアルトの永井智子で、智子はのちに菅原と結婚し、以後荷風と夫婦ぐるみの付き合いになっていく。

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荷風のお好みの住居だった偏奇館は、昭和20年(1945)3月10日払暁の東京大空襲で焼失してしまうが、それ以後、荷風は菅原夫妻を頼り、各所で空襲を逃れながら、最後は岡山に落ち着く。 永井智子は荷風の身辺の面倒をみて、3人は岡山で終戦を迎える。このとき、荷風は菅原夫妻と3人で帰京しようという約束を反故にして、切符を入手した音楽評論家の村田武雄夫妻と共に勝手に帰京してしまう。このことに気分を害した永井智子は以後荷風とは会うことはなかった。

荷風と智子とは永井という同じ姓だが、全く親類ではないと言われてきた。しかし永井路子によると、平成11年(1999)10月の神奈川県立近代文学館「永井荷風展」での講演「母・ 智子と荷風」にて、縁戚であることを明かしている。
いわく、永井路子の母方の「永井」は徳川家康三河生まれの家臣・永井直勝に遡る。のち永井直勝は下総古河に十万二千石の城主となっている。永井直勝と由利姫との間に生まれたのが永井正直で、荷風の永井家の先祖となる。つまり、路子は永井荷風の遠い縁続きになる。”(以下の市川市中央図書館 レファレンスによる)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000035412

 

 永井智子は、実は菅原明朗とは再々婚で、初婚相手は来島清徳という。来島清徳は、智子が音楽学校で歌手を目指しているときに英語を教わっていた帝大生だった。娘の路子(本名永井擴子)のインタビュー記事が残されている。

http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/378_3.html

 

この来島清徳の曽祖父来島信親の姉竹子が、来島又兵衛の妻だった。又兵衛は入り婿になる。

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つまり、永井路子の高祖父の姉が、来島又兵衛妻で、路子は又兵衛と縁者になる。 実父・来島清徳は、昭和3年(1928)7月31日に33歳で亡くなる。路子が3歳の時になる。

しかしここに不思議なことがある。 来島家14代当主来島毅(清徳の末弟)が残した系図があるが、清徳は早世した男子二人を除くと路子のインタビュー通り次男になるが、路子(本名擴子)は三男剛の娘だという。剛も昭和6年(1931)2月21日に若く32歳で亡くなっている。このとき路子は5歳。 永井智子が路子を産んだときに複雑な事情があったようで、路子は永井家の養女になっているのだが、いずれにしろ、路子が来島又兵衛の縁者であることに変わりはない。 ということは、永井路子は僕と遠縁になるということなのだ。

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   永井路子作品をもとにした「草燃える」に出演の岩下志摩 (掲載写真はすべてSNSより拝借)

 

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