文楽と 植村文楽軒

先日8月7日に、文楽を鑑賞する機会があり国立文楽劇場を訪ねた。
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開演する前に、資料展示室の展示を拝見したが、ここには文楽の歴史や、太夫・三味線・人形の三業について、基本的内容をわかりやすく紹介している。
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このとき、文楽の歴史の年表を見て、思わず目が点になり立ち尽くしてしまった。 年表の真ん中辺りの、「文楽軒の登場(文楽が代名詞に)」の段で、 「文化始め  植村(正井)文楽軒が高津新地に芝居小屋を開く」とある。 そして、植村家(本名、正井家)が1803年から1909年の約100年間に渡って、いわゆる文楽座を経営し、明治42年(1909)に松竹合名会社に譲渡されるまでが書かれている。 とっさに僕の頭に浮かんだのは、淡路の人形浄瑠璃であり、淡路の正井家だった。 文楽座を開業し、人形浄瑠璃の代名詞にもなっている「文楽」を残したのは、正井一族の誰れなのかということ。 いままで「植村文楽軒」は知ってはいたが、「正井」と結びつくとは思ってもいなかったのだ。 早速調べてみた。 〇植村文楽軒は、本名は正井嘉兵衛(与兵衛ともいわれる)、通称は道具屋嘉兵衛。 宝暦元年(1751)に淡路国津名郡仮屋浦(現:兵庫県淡路市仮屋)で生まれた。 このとき淡路国は、阿波蜂須賀家が領主で、家老の稲田氏が洲本城代として淡路国を統治していた。 (そのため、出身は淡路国仮屋ではなく、阿波国との説が出来するものと思われる) 植村文楽軒は、寛政(1789-1800)の頃、大坂に出て高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開く。高津橋は、江戸中期、西高津新地の開発に伴って 道頓堀から開墾された高津入堀川にかかる橋 。(『浪華名所獨案内』より、高津付近)
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橋は、道頓堀から、清津橋、吉田橋、末広橋と続き、東に直角に曲がってすぐの橋が高津橋。その高津橋の南詰の西側に浄瑠璃稽古場が開かれた。 (『天保新改攝州大阪全圖』(天保8年発行)より、高津付近)。
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大正4年(1915)には千日前通が作られ吉田橋と末広橋の間に磐舟橋が増えている。以下の図の右下の橋が高津橋で、橋の南側の西(◎)の辺りに浄瑠璃稽古場を開いていた。ちなみに図の真ん中の文と記された場所には現在は国立文楽劇場がある(『大阪市パノラマ地図』大正13年発行より)。
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文楽軒は、稽古場の場所に、文化2年(1805)頃、私財を投げ打って「高津新地の席」という人形浄瑠璃の小屋を開く。これがのちの文楽座のはじまり。 文化6年(1809)には芝居小屋が集まる「北堀江の市之側」 に小屋を移している。 「北堀江」 は、長堀川(東西)と西横堀川(南北)交差する地点(四ツ橋)からみて南西側の地域になる。 ちなみに、南北に流れる西横堀川の東側に、「イナリ社」が描かれている。「イナリ社」は博労町稲荷社のことで、のちに二代目文楽軒が芝居小屋を開く場所となる。(『浪華名所独案内』より四ツ橋付近)。
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「市之側」 は、北堀江にあり、長堀川宇和島橋(四ツ橋のひとつ吉野屋橋を西へ次の橋)の南詰から南に走る筋にある。二通り目と三通り目の間に「シバイ」と記されているのが芝居小屋があった場所になる。(『天保新改攝州大阪全圖』より、四ツ橋付近)
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文楽軒は、北堀江に小屋を移したその翌文化7年7月9日(1810年8月8日)に死去している。60歳。 大阪の円成院(遊行寺)に葬られる。 これまで、父方の先祖調査では正井家についてはまだ調べていなかったが、僕の本籍は同じ仮屋なので、植村文楽軒は正井一族のひとりだと確定できる。 淡路市には浦白山に正井宗家、仮屋に正井本家と分家がある。 植村文楽軒(正井嘉兵衛)は分家筋で、妻テルの実家(森家、屋号は中屋)は経済力があり、文楽軒の浄瑠璃芝居小屋の開業を援助したらしい。 妻テルは、文楽軒が亡くなって10年後、文政3年(1820)に故郷の仮屋の新浜に文楽軒の供養塔を建立するが、供養塔の施主はテルの兄弟の中谷辰右衛門で、供養塔はのちに墓地改葬した折に城原墓地に移転し、中谷家の墓地内に移動している。
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そして時代が下って平成7年(1995)1月17日に阪神・淡路大震災が発生する。 テルの実家の中谷家の墓地も被害を受け、整理縮小せざるを得ず、供養塔を処分することにした。 中谷家は、仮屋の勝福寺の檀家だが、供養塔処分の話を寺の住職が中谷家の末裔の方から耳にする。 住職は、供養塔は町の文化財でもあるので勝福寺にて預かりましょうと、云って移設して現在は勝福寺に保存されている。
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上記写真3枚は、「大阪の文楽、落語、歌舞伎の面白さを伝える古典芸能案内人」の天野光さんから借用させていただいている。 植村文楽軒(正井嘉兵衛)の末裔の方は、5年前に亡くなったが、それまでは勝福寺に感謝し、供養塔のお参りに来られていた。そしてやはり、文楽軒の末裔の方だけあって、勝福寺などで文楽の集まりを企画し講義なども行っておられたが、末裔の方には子がなく、植村文楽軒の家はこの方が最後となった。 妻テルは、文楽軒の死後30年余り生き、天保11年(1841)12月8日に大坂にて死去する。享年75。 そして天保14年(1844)に円成院の墓石が四代目文楽軒(文楽翁、正井大蔵)によって改められ、墓石には釈楽道(文楽軒)、釈妙教(テル)、台石には「正井氏」と刻まれる。 円成院の入口脇には「植村文楽墓所」を示す石標が建ち、「初代文楽軒は江戸中期の人で、いわゆる文楽の芝居をおこし人形浄瑠璃興行に新時代をもたらした斯道の恩人である 文化七年(1810)没」とある。
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また、文楽軒の弟子たちが建立した供養塔が尾道の海龍寺にもある。 文楽軒は、大坂に出て来る前に、中国地方の諸大名に招かれ城内で浄瑠璃を演じていたが、没後、尾道の弟子たちが供養塔を建立した。(右側は、文楽軒のあと代わりに尾道浄瑠璃を教えた竹本弥太夫の供養塔とお経の塚)
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文楽軒の死去の日にちが一日遅く、文化七午七月十日と刻まれているのが面白い。
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上記写真2枚は、「広島ぶらり散歩」の裕さんから借用させていただいている。 〇二代目 初代文楽軒の後は、初代に子がなかったため、二代目として妻テルの甥(中谷辰右衛門の次男)貞蔵が養子となり、植村文楽軒を名乗る。本名は正井貞蔵。浄楽翁と称す。 (過去帳により証楽翁とする説があるが、ここでは初代文楽軒夫妻の墓石裏面の記述に従い浄楽翁とする) 二代目は、テルの庇護のもと、初代死去の翌文化8年(1811)に28歳で、博労町稲荷社(現、難波神社)境内に「稲荷の芝居」とよばれる人形浄瑠璃の常設小屋を開いた。 但し、若くして文政2年(1819)に36歳で亡くなる。
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「初代植村文楽軒の人形芝居は、文化八年(1811)ここ稲荷社に芝居を移し その後中断したが 明治四年(1871)まで続き文楽軒の芝居とも呼ばれ文楽の名の起こりとなった。」
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当時の稲荷社は、東側は御堂筋の中ほどまで境内が広く、芝居小屋はそこにあった。
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  〇三代目 中谷辰右衛門の長女ツルの甥・清六が二代目の死後、養子となり植村文楽軒を継ぐ。 博労町稲荷社(現、難波神社)境内にて「稲荷の芝居」を継続する。 二代目が亡くなった文政2年(1819)は、実子の大蔵はまだ6歳。初代文楽軒のやり手の妻テルは53歳。 おそらく清六は、大蔵が成長するまでのピンチヒッター的役割と思って、継いだのかもしれない。 清六が三代目を継いでなく大蔵が三代目とする説も散見するが、天保14年(1844)に造り直された円成院の初代植村文楽軒夫妻の墓石の裏面の記述に、大蔵自らが三世孫(曾孫)と名乗っていることから、三代目は正井清六、、四代目は正井大蔵で間違いがない。
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〇四代目 二代植村文楽軒の実子。本名は正井大蔵。のち文楽翁を称した。 文化10年(1813)-明治20年(1887)2月15日。 天性慧敏で経営の才に富み、「稲荷の芝居」を隆盛に導いた。 ところが天保の改革により、天保14年(1844)5月16日から社寺内の芝居廃止令が出たため、稲荷社内の文楽座も退転となり、4月の興行を最後に社内より退去する。 その後、各地を転々とし、苦難の経営を続けた。 たとえば、天保14年(1844)に北堀江市之側芝居、弘化元年(1845)に道頓堀若太夫芝居のあとは、10年弱興行場所が不明で、安政元年(1854)に西堀清水町浜に拠ってから定興行を続けている。 そして安政3年(1856)に、旧地の博労町稲荷社(現、難波神社)境内に戻り、「稲荷の芝居」を再開した。そしてこの頃から「文楽軒の芝居」と呼ばれるようになる。 明治5年(1872)には大阪府の要請に応じ、九条の松島新地(大阪市西区松島千代崎橋)に劇場を新築し、芝居に「官許人形浄瑠璃文楽座」の看板を掲げ、やがて斯界の指導的地位を占め、文楽中興の祖とうたわれた。 (但し、『義太夫年表』では五代目植村大助への家督相続は明治15年(1882)としているが、明治5年に松島文楽座が創設されたときの座主は既に植村大助であり、家督は譲られており、松島文楽座への移転は実力者父文楽翁のバックアップもあってのものと考えたい) 明治20年(1887)2月15日死去。享年75。円成院に文楽翁を称える「文楽翁之碑」が建っている。
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〇五代目 四代植村文楽軒(文楽翁)の子。本名は正井大助。 天保11年(1842)-明治23年(1890) 明治文楽の基盤を整えた。 明治17年(1884)に二代目豊沢団平を擁した彦六座が博労町稲荷社(現、難波神社)の北門に開場したため、文楽座も対抗するため松島から稲荷社近くの御霊神社境内へ移る。 (明治19年2月から年内は、御霊芝居改築中のため、一時松島千代崎橋にて興行している。)
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鳥居の左に「御霊文楽座跡」の碑がみえる、鳥居の奥にある建物の辺りに御霊文楽座の芝居小屋があった。
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文楽座は明治十七年から大正十五年までこの地にあった。御霊文楽の名で親しまれ大坂人の社交や商談の場として大いに繁盛した。」
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  五代目は明治23年(1890)に死去。享年49。 〇六代目 五代植村文楽軒の子。本名は正井泰蔵。 明治3年(1870)-大正4年(1915)6月11日。 竹本摂津大掾(だいじょう)を中心に人形浄瑠璃文楽座の全盛時代を迎え、「輝ける明治文楽」を築きあげるが、事業に失敗。経営不振から明治42年(1909)3月20日文楽座を松竹合名会社に譲り渡した。 大正4年6月11日死去。46歳。
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  墓石の背面に、「大正六年九月建之」とある。 以下は余談。 淡路には正井家は仮屋以外に、浦白山に正井宗家がある。 正井宗家に古文書が多く残されており、古文書を解読した東浦史料編纂委員会の編纂した「東浦町史」によれば、正井宗家のあらましが分る。 正井宗家に伝わる文書に、南北朝の頃、浦村(現、淡路市浦)、来車(現、淡路市久留麻、仮屋)を中心とした東浦一帯に勢力を張っていた国人に、正井将監がいた。正井将監は元の名を「菊池能平(よしひら)」という。 祖父の「菊池武重(たけしげ)」は、湊川の戦いに参戦し、その後領地のある九州の肥後国菊池郡(現、熊本県菊池)を中心に九州南朝軍として戦っている。 菊池能平は、南朝方として浦村に築城していたが、周りは北朝ばかりで、「菊池」姓では攻め込まれるばかりなので、母方の姓を取って、「正井将監」と改名する。この母方が、仮屋の正井家からの縁に繋がっている。城は正井城と呼ばれている。 正井将監は応永6年(1399)に領主として八幡宮(現、松帆神社)を創建しているが、この頃は3代将軍・足利義満の代になり、正井将監は領主としての任を解かれ、白山村の庄屋に任命され、幕末を経て、現在は21代を数える。 ところで、正井将監が創建した八幡宮には、「名刀あり」との口伝・噂はあったものの何処にあるどんなものかは判然としなかったが、昭和初期に偶然、本殿奥の内陣より「菊一文字」の名刀が発見された。
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その由来には様々な説が出たが、(1)菊一文字の非常な希少性(有力大名・大財閥でなければ入手不可能と言われた) (2)吉川弥六の末裔吉川家に、「菊一文字は落人間で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」との口伝がある事の主に2点より、菊一文字建武中興の恩賞として賜ったであろう大楠公遺愛の太刀として伝えるところとなった。 「菊一文字」というと、沖田総司を思い出す。 近藤勇の刀は「虎徹」、土方歳三の刀は「和泉守兼定」、沖田総司の刀は「菊一文字」。 土方はともかく、近藤は偽作の虎徹を本物と信じて実戦で活躍したとされている。 沖田総司の「菊一文字」は果たしてどうだろうか? 沖田総司研究家・作家として有名な森満喜子が沖田家子孫の「総司の刀は菊一文字で、その後神社に奉納された」との言を司馬遼太郎に伝えたことからできた話だが、菊一文字の非常な希少で、有力大名・大財閥でなければ入手不可能と言われたことを勘案すれば、小説上の話とした方が良いと思われる。  参考: 『難波神社案内記』、『御霊神社案内記』、 『文楽今昔奥付』、『文楽淡路人形座』、『文楽の歴史』、 浄瑠璃ミュージアムHP、松帆神社HP、 blog古地図で愉しむ大阪のまちづくり http://osakakochizu.blogspot.com/2017/02/blog-post.html、 広島ぶらり散歩 http://yutaka901.fc2web.com/page5ix54b.html 大阪の文楽、落語、歌舞伎の面白さを伝える古典芸能案内人 天野光 https://ameblo.jp/koten-geinou-guide/entry-12289401477.html 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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