最近は上野戦争当日の彰義隊の戦いに関心がある。
『史談会速記録』第74輯記載の明治31年の小野保の話によると、
膠着状態のこの戦争の流れを大きく変えたのは、滋野直臣という兵士の空腹だという。
腹を満たしに黒門口傍の雁鍋に入って二階に上がってみると、手こずっていた山王台の彰義隊の砲台がよく見える。
そこで、この二階から十四五名ほどで簾越に狙撃を始める。
また、『史談会速記録』第270輯の「戊辰上野戦争実歴談」にて大正4年に堀正が語るところによると、
雁鍋は二階屋がふたつあり、片方の二階から鉄砲を撃ったのは誰かは分らないが、一方の二階から銃撃したのは、河田左久馬を始め原六郎・堀正他5・6名だという。
二つの話を纏めると、
雁鍋二階からの射撃には、二つの部隊があったことになる。
これにより、彰義隊側の大砲を取り扱う者は続々と斃れ、大砲方が倒れたために大砲の砲撃はバッタリと止んだという。
この雁鍋からの銃撃を境に、新政府側に形勢が有利になり、戦争の流れが変わってしまう。
高祖父になる幕臣河島由路は黒門口にて銃撃を受けその晩に死去するが、雁鍋からの銃撃は山王台だけに向けたとすると、黒門前面の別の部隊(薩摩兵など)の銃弾によると思われる。
ところで、上野戦争の5年前の文久3年(1863)の生野の変に参加した父方の先祖・小山六郎は、同じ地元但馬から参加した進藤俊三郎(原六郎)、北垣晋太郎(北垣国道)と義兄弟の約を結び、志士中最も親交を厚くした三兄弟といわれている。
この原六郎が、上野戦争で雁鍋から彰義隊に向け射撃していて、同じ弾ではないとはいえ、そばの黒門口で母方の高祖父・河島由路が被弾している。
僕にとっては不思議な光景といっていいのだろうか。
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