いろは丸事件

三吉慎蔵宛ての長府藩士・印藤聿の書簡がある。

「坂本先生が今朝、下関に帰ってきたそうです。 夕刻までには出帆し、上方へ登るとのこと、伊藤九三より申してきました。 龍馬のために大小(本差と脇差)を送るよう伝言がありました。 伊藤からの使いに持たせ送るのであればお渡しください。 私と夕刻までに一緒に下関まで行くがよいと思いますが、そうであれば使いに申しておいてください。 四月廿一日」 との内容。

慶応3年4月23日に「いろは丸事件」が起きている。 この書簡は、日付から、4月19日に長崎を出帆し、21日朝に下関に着いたことを知らせる書簡で、 まさに4月23日にその紀州藩明光丸との衝突の直前のいろは丸の様子を伝えている。 19日長崎出帆から23日衝突までの間の、いろは丸と龍馬の足跡が分る史料としては、初出かもしれない。

<いろは丸とみられる絵>193116005_3805850586209321_6786330579379430369_n.jpg

龍馬は、積んでもいないミニエー銃400丁の賠償金を交渉で得たという。 その資金も活用し、従来からの夢であった蝦夷地開拓に本腰をいれるはずだったともいわれる。 蝦夷地については、事件の前に、3月6日付印藤宛の書簡でも、その夢を語っている。

ところで、 いろは丸は、ミニエー銃を本当に積んでいなかったのだろうか? 長崎を出帆した時は積んでいたが、衝突した時は積んでいなかったのではないだろうか。 4月21日に下関で積み下し、他の産物を代わりに積み込んだのではないだろうか。 とすれば、ミニエー銃を積んでいた、というのは案外出まかせではないかもしれない。

何の史料的裏付けがあるわけではなく、単なる妄想なのだが・・・・ この妄想を裏付ける史料がないか探している。 印藤聿に誘われた慎蔵が、この日、下関に実際に出かけたのか、これも分かっていない。

 

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

 

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