先日も、
「江戸時代、幕末の日本で坂本龍馬を護衛した凄腕の槍術使い『三吉慎蔵』とは」との題で、Japaaanマガジンの記事を眼にしました。
Japaaanマガジンの幕末関係記事はあまりにも誤りが多いので読まないようにしているのですが、
この三吉慎蔵の記事は先祖に関することなので、以下精読しました。
https://mag.japaaan.com/archives/129092
https://mag.japaaan.com/archives/129092/2
https://mag.japaaan.com/archives/129101
https://mag.japaaan.com/archives/129331
https://mag.japaaan.com/archives/129331/2
間違いだけ指摘しておきます。
1)「龍馬の護衛を務めた男」
-->三吉慎蔵の役目は、龍馬の護衛ではなく、
です。
結果的に、龍馬を助けたことになり、後付けで護衛とされていますが、慎蔵には迷惑でしょう。
2)「1855年には長州藩師範・小幡源右衛門より免許皆伝を受けている。「慎蔵」という名はこの時送られたものと考えられている」
-->「慎蔵」は、嘉永5年(1852)2月13日に小幡氏より俗名友三郎を改め名付けられる。
免許皆伝は、安政2年(1855)です。
3)「1857年には長府藩藩主「毛利元周(もうりもとちか)」に随従して江戸へ。洋学を導入し、海防の知識に明るかった江川太郎左衛門から西洋の砲術を学んだとされる。」
-->安政4年(1857)は、藩主元周は参勤交代で江戸に滞在中であり、この年9月に長府に帰城。
藩主の参勤交代の先着として江戸に向かうのは、翌安政5年(1858)2月のこと、また
4)「同年、長府藩より京都の情勢を探る任を受けた慎蔵は龍馬と共に下関を発った。この時の慎蔵に龍馬の護衛任務はなかったとされ、あくまでも藩命による情報収集が目的であった。」
-->この記事は正確です
5)「異変に気づいたのは一階で入浴中だった龍馬の妻「お龍」。彼女は半裸のまま二階で談笑する二人に危機を知らせた。」
-->「半裸のまま」との表現は微妙ですが、「全裸」が正しいと思います。
6)「慎蔵は寺田屋事件の功により、長府藩から刀の下賜と20石の加増を受け「同藩目附役」に任じられている。」
-->刀の下賜は、長州萩藩主毛利敬親からです。
7)「1867年。龍馬は自身が立ち上げた「亀山社中(海援隊)」の拠点を下関に置いた関係で、再び慎蔵と再会する。そして同行していたお龍の面倒を慎蔵に託している。」
-->亀山社中を龍馬が立ち上げたことは、今では史実とは異なるといわれています。
また、龍馬は度々長府の慎蔵宅を訪れており、慶応3年(1867)に「再会」とあえて言うのはおかしいと思います。
また、龍馬が下関に居を移したときにはお龍の面倒を慎蔵には託していません。
細かくは実はもっとあるのですが、今回はここまで。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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