東京を整備した山尾庸三

東京築地にある「訓盲院発祥の地」碑からの連想。 明治になってから洋風の建造物が作られていくが、初期の建築には幕末に活躍した人物の名がよく出てくる。 訓盲院の建築は、お雇い英人のジョサイア・コンドルの設計になるが、以下の経過をたどった。1899251_506672219460524_7410662430347554396_o.jpg10372667_506672192793860_3643256659530041025_n.jpg10325425_506672199460526_7776826037222473395_n.jpg 明治8年(1875)5月に、古川正雄・津田仙・中村正直岸田吟香・ボルシャルトの5人によって、盲人教育のため盲人学校を設立することが決まり、設立主体として「楽善会」を発足させる。 翌9年には、発起人に前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が加わっている。 このうち、山尾庸三は、明治元年に英国から帰国し、工部権大丞、工部少輔を歴任し、明治5年に工部大輔に就任していた。すなわち東京を整備し、建物を建築していく立場にもあった。

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明治9年に、楽善会訓盲院の設立認可が下り、東京府より3000円が下賜される。 校舎は当初は麹町紀尾井町を予定していたが、紀尾井町は高低一様でないとの理由から、平坦な築地三丁目十七番地、約4,783坪が選ばれた。

コンドルは明治10年(1877)に来日し、工部大学校造家学教師および工部省営繕局顧問をしているが、この訓 盲院の建物はコンドルの初期の建築作品となった。 明治12年(1879)12月に、総面積約100坪、総レンガ造りの2階建てで室内は総漆喰塗りの校舎が落成する。 翌年から授業が開始された。(楽善会訓盲院は明治17年に楽善会訓盲唖院と改称し、明治20年には東京盲唖学校と改称される)

工部大輔・山尾庸三とコンドルのコンビは、訓盲院を建築している間にも、東京帝室博物館本館、 宮内省本館、 鹿鳴館華族会館)、有栖川宮邸洋館、 法文科大学等を設計建築していく。 そして明治13年(1880)5月6日には、訓盲院の建築をあきらめたのと同じ町内の紀尾井町北白川宮邸敷地内に、宮御殿の建設が決定される。 この年、山尾庸三は工部卿に就任し、後任の工部大輔には吉井友実がなり、実務の営繕局長は平岡通義が担当していた。設計にはコンドルが携わる。05.jpg

北白川宮邸は能久親王の殿邸として、洋館と日本館が造られる。131248217_3084625161638593_4769864503264951391_o.jpg14053722_933041690156906_5822242025698249367_o.jpg130236219569816305904.jpg 明治15年7月26日に、第宅工事のため、上野戦争時に寛永寺貫主・日光輪王寺門跡であった能久親王は東叡山春性院に移り住む。そして日本館が落成した11月19日に東叡山より還入った。 その後明治17年12月27日に洋館が竣工し、宮は洋館へと転居する。

当時としても豪壮な北白川宮邸について、研究者・小野木重勝氏は、 皇族殿邸における機能を、①表公室関係、②奥私室関係、③内廷事務関係、④内廷職員関係の四つに大別できるとし、 北白川宮邸では、①と②を併合して御殿(洋館)、③と④を併合して属舎(日本館)としている。この考え方は、明治大正期に建築された洋式皇族殿邸に大きな影響を与えたと見ることができる。また、特に洋館は他にない豪壮さを誇り、当時の上流階層の邸宅に影響を与えたと、結論付けている。

北白川宮御付であった三吉慎蔵は、この工事のため、工部省と費用の面で交渉に苦労したことが資料から窺うことができる。 なおのちに山尾庸三は、井田譲のあとを継ぎ岩倉具経に引き継ぐまで、明治21年の1年間、北白川宮家の別当を務めている。

 

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

 

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