戊辰戦争と多田郷士

多田郷士のいる兵庫県川西市の多田庄は源氏の発祥の地であり、僕の住んでいる宝塚から近い。DSCN02.JPG祭神 祭神は清和天皇の曾孫源満仲、頼光、頼信、頼義、義家の五公。すなわち源氏の祖廟であり、源氏の発祥の地DSCN07.JPGDSCN8729.JPG ドラマ「銀一貫」で北摂津の寒天が有名になったが、幕末期に紀州藩の寒天製作を一手に引き受けたのも多田院の御家人(多田郷士)を名乗る黒田家だった。 ところで、戊辰戦争に参加した郷士として、 勤皇で知られた大和十津川の郷士、京都の山科郷士隊、京都時代祭りの先頭に立つ丹波山国隊などが有名だが、この北摂津の多田郷士についてはあまり知られていないようだ。 しかし、しばしば歴史上重要な場面に多田郷士は顔を出している。 多田郷士からなる多田隊の誕生は、以下の経過をたどる。 鳥羽伏見の初戦のあと、慶応4年正月5日、京の参与役所は摂津川辺郡の多田院別当に宛てて、岩倉殿執事を通じて、京の守りのために多田郷士の上京を求める。 これを伝える飛脚が多田院に翌6日夕刻に着く。 当時の川辺郡は宝塚も含んでいるが、近隣の村々に住む多田郷士が知らせを受け、80人程が馳せ参じ、亀岡を経由して早くも8日には京都に到着する。 ただちに岩倉殿に出頭して到着を報告し、ここに御守衛多田隊が誕生する。 左下に、御守衛として、摂州多田の名があるDSCN01.JPG ところが、京では先に浪士を集め、多田出身の奥西熊之進を隊長とした多田隊がすでに結成されていた。 実は多田郷士の上京を求めたのは奥西の差し金であり、既存の浪士以外に、国元の多田郷士を上京させ隊名通りに隊の面目を保つのが目的だった。 奥西は昔、多田庄で殺人を犯し逃亡し行方不明の経歴を持つ人物で、京に到着した国元の多田郷士にとっては隊長奥西の指揮下に入るのは意外であり不満なことであった。 このように、戊辰戦争で活躍する多田隊は、当初から浪士組と国元組の混成部隊であり、分裂する要因は隊が編成された当初から内包していた。 しばらくして正月23日頃から、赤報隊の悪い評判が京都で立ったことを契機に浪人取調が始まり、結果的には3月8日には国元組だけで多田隊は再出発することになる。 以後、新政府軍の東征に従って、多田郷士の名が見られるようになる。 東征の東山道方面では、召し取った嚮導隊(赤報隊改め)の相樂総三たちの後始末をつける責任者は多田隊士新井三郎だった。 同じく嚮導隊と小諸藩との戦いで捕らえられた嚮導隊の桜井常五郎以下三人を追分宿にて処刑したのも、山科隊の柳田武槌太郎と多田隊の新井三郎だった。 つまり多田隊は、追分宿に於いて嚮導隊の最後のとどめをさす役割を果たすことになる。 多田隊は流山での近藤勇の捕縛にも関係する。 香川敬三には数名の多田隊員が付随していたが、香川敬三たちが流山にて逮捕した近藤勇を板橋の本営で取り調べた中心人物が、多田隊員で多田院の役人出身の脇田頼三だった。 もっともこの時は、多田隊から離れて「岩倉殿常勤」として岩倉直属になってはいる。 なお、この近藤の首は京都へ送られたが、樽の塩漬けでではなく、当時まだ珍しく新しい方法の焼酎付けであった。 上野戦争では、 多田隊の一部は東征大総督府の本陣に当番として詰めてはいたが、直接上野戦争には実戦参加はしていない。 その後は、北越征討など東北各地での戦いで活躍することになる。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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