同志社創立者と大河のヒロイン

昨日京都南禅寺に用があったので、ついでに近くの若王子山に登ってきた。 この山の頂には、同志社創立者新島襄を始め、妻八重、八重の両親と兄の山本覚馬、覚馬の次女、徳富蘇峯、そして中村半次郎の恋人村田さとなど同志社関係者が眠っている。
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西田幾多郎に因んだ哲学の道の南端に熊野若王子神社がある。この神社の脇に、若王子山の山頂にある同志社共葬墓地へと続く山道がある。急な山道をイノシシに気を付けながら登り、途中の墓群をいくつか横に見ながら進むと、20分ほどで柵で囲われた墓域に行き着く。その中に新島襄達の眠る墓がある。村田さとの墓は、柵の外の墓群の中にある。
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墓地入口正面に新島襄の墓が建っている。 墓碑銘は友人の勝海舟の手になる。もともとの墓標は昭和61年(1986)に倒壊しているが、翌年再建し墓碑銘は元の墓標から写し刻んでいる。墓碑銘も墓標裏の銘も、島の字は横棒が一つ足りない。海舟の癖だったのだろう。
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この墓標銘は、新島襄が永眠した明治23年(1890)に八重未亡人が海舟を訪ねて依頼し、この時に銘を海舟が認めている。 新島襄と海舟との親交は、キリスト教主義の大学を創設する相談に新島が海舟を訪問した明治12年(1879)に遡る。 左隣の妻八重の墓は、夫の墓石と比べると意外と小さい。
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島の字は旧字の「嶋」を使っている。 墓の周りの外枠ハメ石の上には、小さな四角形の石が整然と配置されているが、すべて天が菱型に置かれている。この墓域の中では他にない珍しい置き方。 再来年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公の墓だが、今はまだ訪れる人は殆どいない。 夫妻の墓の向かって左奥には、右から徳富蘇峰山本覚馬、覚馬の両親と弟、山本覚馬の次女久栄の墓が整然と並んでいる。
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覚馬の墓碑銘は、友人の南摩綱紀が「追悼揮涙書之」と誌して、書いた。
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覚馬と同志社との関係は、宣教医ゴルドンから贈られた『天道溯源』を読んだことが発端になる。キリスト教こそが真に日本人の心を磨き進歩を促進する力となり得ると考え、当時知り合いとなった新島襄の学校設立計画を知って、維新後に薩摩藩の知遇を得ていた関係から旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に斡旋する。この用地は、新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願し設立された同志社英学校、その後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスに続いている。 覚馬の父山本権八会津藩砲術指南役で八重にも鉄砲の使い方を教えた。会津戦争のとき城外で戦死している。 母の佐久は権八の死後、八重と共に覚馬を頼って京都に移り住む。 覚馬の弟三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死している。
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覚馬の次女久栄は美人で有名だが、蘇峯の弟蘆花との婚約破談の翌年23歳で亡くなっている。
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覚馬の墓の右隣に蘇峯の墓がある。
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これは生前の昭和22年(1947)、蘇峰が「蘇峯学人之墓」と自ら誌した墓で、32年に亡くなってから同志社が建立したもの。実際の墓は府中市多磨霊園に「百敗院泡沫頑蘇居士」と自ら誌した墓がある。 蘇峯は熊本に生まれ、同志社英学校に学ぶが、新島との考え方に完全には共感出来ず中退した。 ただし新島に対する尊敬の念は生涯褪せることはなく、新島の最期も看取っている。 日本近代ジャーナリズムの祖として知られ、進歩的平民主義の立場に立ち、「国民の友」や「国民新聞」を創刊した。 また、『近世日本国民史』100巻は1918年に起稿し、一時戦後に中断したが、1952年に完結する。織田信長の時代から西南戦争まで、資料を縦横に駆使して記述しており、歴史家・作家の種本としてよく使われる。 神奈川県中郡二宮町の自宅に建てられた「徳富蘇峰記念館」は、6年ほど前に訪ねたが、蘇峰あて書簡、蔵書が多く保存されており、この時も研究者が通い詰めていた。 村田さとの墓 山道を登って行くと、最初の共葬墓地の横を通るが、樹木で鬱蒼としわずかに陽が当たるその墓域の中に村田さとの墓がある。
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村田さとと関係があるのか否か分からないが、大きな司祭の墓の右横に付き添うように、村田家の墓がある。
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さとの墓の裏には「大正十年八月十一日就眠 享年八拾壱」とあるが、この村田家の墓は昭和六年建立とある。 ただ、さとの墓と違い今にも崩れそうで、隣の司祭の立派な墓とのコントラストが目立っている。 この件はそのうち調べてみようと思いながら、山を下りた。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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