咸臨丸子孫の会静岡旅行 2日目

10/30は、沼津市戸田で戸田造船郷土資料館を拝見し、伊豆の国市韮山では反射炉と江川邸を見学した。 たたみの宿「湯の花亭」を9時にバスで出発し、戸田に向かう。 戸田湾への途中で、ガイドをしていただく山口展徳氏が乗り込まれる。 山口氏は、本業が戸田の大工の棟梁。船大工が夢で日本とロシアの友好交流にも関心があり、ヘタ号を再建造してロシアへ行って文化交流する、という壮大な夢を持っておられる。 山口氏のHP:戸田村再発見! http://web.thn.jp/yamanobu/ まず、何か所か富士山が見えるスポットを案内いただきながら、戸田湾が一望できる出会い岬へ向かう。 左は駿河湾、右は戸田港、真ん中に白砂青松の御浜岬、その先に富士山が見える
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戸田港の狭い入り口から望む富士山
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出会い岬の傍の沢海にサムライビールで有名なトミーこと立石斧次郎のご子孫の別荘が在ったと教えていただいた。 出会い岬から見た戸田湾。 戸田湾は、きわめて独特の形状をしている。入口が狭く中が広い。巾着湾と呼ばれている。
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この戸田が幕末史に登場するのには理由がある。 ロシアのプチャーチンは、日露交渉のため下田に来て、嘉永7年(1854)11月3日に日本側の相手・川路聖謨と会談した。 ところが2回目の会談が行われる翌4日朝、東海沖地震が発生する。 ロシア艦ディアナ号は船底に穴が開き修理が必要になる。 幕府は、攘夷論が盛んなため東海道から遠く外れ田舎の下田での修理を提案するが、プチャーチンに拒絶される。 ロシアはトルコと戦争中であり、トルコを支援する英仏の軍艦が下田に来航する可能性があるため動けないロシア艦では拿捕される惧れがあった。 修理するための場所の条件は、①遠くへ行けないため、伊豆半島のなかで探す。②英仏軍艦に見つからず密かに修理ができる、③修理のための地形が適していること。 この条件に適した港として、戸田をロシア人自身が探した。 そして、下田から戸田へとディアナ号を移している最中に嵐が来て、ディアナ号は駿河湾に沈んでしまう。 そのため、ロシア人の帰国船を急遽建造することになる。 この時のヘタ号建造の幕府の最高責任者が、韮山の代官江川太郎左衛門英龍。 ロシア人技師と日本の船大工とが協力し、12月10日から造り始め3月10日の進水式までわずか3か月で、洋式帆船を完成させる。 3月22日に、プチャーチン一行500人のうち48名がヘタ号と名付けられた船で帰国する。 他の乗組員は、ドイツ船など別便で帰国の途に就く。 御浜岬にある戸田造船郷土資料館には、様々な顕彰碑が建立され展示物がおかれている。       ヘタ号建造に尽くした人々の顕彰碑
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      造船世話掛の上田寅吉の顕彰碑
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      沈没したディアナ号の大きな錨
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館内では、山口氏から展示物を前に丁寧な説明をいただく。
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ディアナ号の模型。大阪万博のあと、旧ソ連から寄贈された
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       建造したヘタ号の模型
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その他、戸田から長崎の海軍伝習所に行った人、ヘタ号を造った大工の中に咸臨丸に乗船した人、和船と洋式帆船ヘダ号の違い、今に続くロシアとの交流などなど、興味深い話を聞くことができた。 ついで、山を越え、韮山に向かう。 まず、「蔵屋鳴沢」で昼食を摂った。 地ビールを製造しており、ビールを注文した人も多い。小生も4種類のビールを飲み比べてみた。 やはり出来立てのビールはどれもうまい。
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ここではたまたま同席した案内役の相原修氏から、石井修三の功績についてお話を伺った。 石井修三には代表的なものに、『歩兵運動軌範』の翻訳がある。幕府以外に、長州藩薩摩藩など全国各地で使われた。 今でも使われている号令、「気を付け」「休め」「廻れ右」「前ヘ進め」「全体 止まれ」「右へ倣え」等の号令は石井の翻訳語であり、軍艦操練所で創作された「ヨーソロー」等の船舶号令も多くは石井の翻訳号令に基いている(勝海舟陸軍史) 相原修氏には『蘭学者・石井修三の生涯 - 西洋を学び明治を先覚した偉才』の著書がある。 韮山反射炉では、伊豆の国市の工藤雄一郎学芸員に、反射炉の歴史、構造の概要、鋳造した大砲などの武器について解説をしていただいた。
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日露戦争後の反射炉、周りには日露戦争で分捕ったロシアの銃剣を並べで柵となしている。
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反射炉は、石炭などの燃料を燃焼し炎を炉の天井に反射させ、その熱で鉄を溶かす。      炉の内部の写真
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反射炉の外部、出湯口、写真は二つの炉がありそれぞれ独立している。3つの穴のうち、下が出湯口、中は出滓口、上は撹拌口
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日本では、静岡県韮山佐賀県築地・多布施、大分県安心院の佐田、鹿児島県磯、山口県萩、鳥取県六尾、岡山県大多羅茨城県那珂湊の九か所に造られた。 このうち、幕府として築造したのは韮山反射炉だけ。 日本で平炉の反射炉を作り始めたころ、海外では技術が進み高炉方式への転換が始まっていた。したがって、反射炉を壊し新しい工場を造っていったため、反射炉は日本にしか残っていない。 日本で今残っているのは、韮山と萩で、那珂湊は復元したもの。韮山反射炉は世界で唯一の原型機能を最良の状態で保存されており、学問の研究対象になっている。 江川邸では、工藤雄一郎学芸員と、ガイドの方に案内説明をいただいた。 この江川邸で、天璋院篤姫やJINの撮影がなされたのは初めて知った。
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江川家は中世からの豪族で鎌倉時代以降江戸時代までその時々の実力者につき生き残った稀有な家柄である。 情報収集能力が優れていたことを表している。 江川酒など、様々なチャンネルを活用し全国から最新の情報を集めていたに違いない。 江戸時代を通じて韮山代官を継続しており、子孫代々同じ代官を専有したのも江川家だけらしい。 幕末動乱の時代には、36代江川太郎左衛門英龍が登場した。 蘭学を修め、渡辺崋山高野長英など当時の気鋭達と交わり、外国事情や国際情勢を知り、日本の置かれた立場を憂慮して多くの分野で幕府に建議を行う。 様々な最先端の学問を修めた江川の塾には、当時の最高の頭脳が集まってきた。
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咸臨丸の関係では、この江川門下と韮山から以下の十名が乗っている。 (教授方)鈴藤勇次郎、中濱萬次郎、小野友五郎、松岡磐吉、肥田濱五郎 (教授方手伝)赤松大三郎、(公用方)吉岡勇平、(鼓手)斉藤留蔵、 (船大工)鈴木長吉、(船鍛冶)小林菊太郎 江川文庫所蔵の中から、咸臨丸関係の文書を見せていただいた。
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そして最大の目玉は、16歳で鼓手として乗船した斉藤留蔵が記した「亜行新書」。
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乗組員が書いた航海日記の中でも斉藤留蔵の日記は他の士官と違い、航海中に見聞きしたことをそのまま記している点で咸臨丸研究には貴重な資料となっている。 これまでも亜行新書は活字にはなっているが、原本が行方不明だった。その原本を、所有者の好意で見る機会に恵まれた。斉藤留蔵の御子孫の森田さんにとっては、先祖の直筆の日記と会えて、感慨無量の御様子だった。 今回の咸臨丸子孫の会の静岡旅行は、地元の富士宮人づくりの会の方々のご協力を得て、大変すばらしい内容となりました。各地での適切な専門家のアテンドも地元ならではのことと思います。 ありがとうございました。 翌日の中日新聞の記事 http://kanrin-maru.org/press/2011/press2011image/111031chunichinp_2.jpg 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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