古武士のような人物

11/12は義理の叔父の一周忌だった。 小生の尊敬する人物の一人で、古武士然とした、きわめて礼儀正しく曲がったことが嫌いな人だった。 陸軍士官学校を卒業したあと、選抜されて陸軍中野学校に入った。 満州の地に赴任し、戦後はシベリアに抑留される。 部下を先に復員させ、最後から二番目の帰還船で舞鶴に帰ってきた。 帰還してすぐに戦死病死した部下の家族の家を訪ねて全国を回る。 帰還直後から、抑留中に共産主義教育を受けたのではないかと、公安警察の監視を受けていた。 暫くして、戦友の妹を嫁に迎えた。 妻となった人は広島の日赤病院で勤務中に被爆し、体からガラスの破片が見つかることが長く続く。 本人は酒が好きで、水がよいとの理由で、兵庫に移り住んだ。 事業を起こし、二人の息子を育て、孫達の成長を見守ってきた。 その叔父が91歳で亡くなって1年になる。 家族にも誰にも戦争中のこと、シベリア抑留中のことは、一切口にせずに、静かに死んでいった。 シベリヤ抑留について、ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。 どのように受け止めていたのか、叔父は無言だった。 叔父の一生はどんな生涯だったのだろうか? 静かな物腰の中、常に凛としていたが、内面は、近年の日本の状況などについて、戦争中のこと、死んでいった仲間たちのことを思い釈然としないことが多かったのでないだろうか? 一切口にはしなかったが、一度だけ、当時の軍最高幹部と中央のことをつぶやいたことがあった。 武器もなく弾もなく食料の供給もないのに、どうして戦えと命令できるのか。 敗色濃厚になりまた敗戦になった時、一番先に幹部連中がさっさと帰還した。 叔父にとっては、人間的に許せない人種がいたのは確かなことだった。 背筋はピンとして身体は丈夫だったが、居合いなどで鍛錬は怠らなかった。 亡くなる数年前、形見分けかその居合に使っていた刀を贈られた。 和泉守兼定土方歳三が欲しがった会津刀とは違うが同じ名の刀工の作品。いわゆる「之さだ」。 表に「兼㝎」、裏には「於伊勢内宮」と刻む。
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DSCN8048.JPG 叔父はある年齢になってから先祖の調査をしていた。 戦国時代までは判明したようだが不明な部分も多く、完全に満足いくまでは調べきれなかったようだ。 折を見て、どこまでできるかわからないが、調査を引き継いでみようかと思っている。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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