和泉守兼定の「之定」

今日は天皇皇后両陛下が伊勢神宮に参られた。 外宮、内宮で退位の報告・儀式が執り行われたという。

伊勢神宮については思い出が多いが、中でも僕が伊勢神宮からみでいつも思い浮かぶのは、和泉守兼定だ。 生没年不詳で、「之定(のさだ)」の通称でも知られる。 出身は甲州で美濃の初代兼定の門人になり、後に養子になる。 その刀は切れ味よく、最上大業物にランクされている。 作刀期間は文明22年(1472)から、大永6年(1526年)頃まで、この時代の美濃国では随一の刀匠といわれる。

兼定には、関兼定会津兼定の2系統があるが、「之定」は関兼定関兼定の初代は親兼定、2代は之定(和泉守兼定)、3代は疋定と呼ばれる。 2代兼定が「之定」と言われる所以は、銘の「定」字を明応8年(1499)から同9年の間に、㝎すなわちウ冠の下に「之」と切るように変えたためで、3代目兼定は銘の「定」字を「疋」と切ることから「疋定」(ひきさだ)と呼び、区別されている。

「兼」字は、第1画を「ノ」のように打った後、第2・3画は短い点を2つ、同一線上に打ち、字の下部は「よつてん」とする手癖がある。 「和泉守」は、永正5年(1508年)から同8年(1511年)間に受領したらしく、受領の背景には伊勢の神宮における派閥争いにおいて刀剣を鍛え供したことの恩賞と考えられている。 室町後期の名刀匠である孫六兼元と人気を二分し、後年の江戸時代には「千両兼定」といわれた。 「之定」を所持し愛用した武将として、武田信虎津田信澄柴田勝家明智光秀池田勝入斎、細川幽斎細川忠興黒田長政森長可などがいる。また島津家にも「之定」の名刀が伝わっていたらしい。

僕の「之定」はもう10年ほど前に叔父から譲られたものだ。 「之定」で、銘に「和泉守」がないことから、作刀は明応8年(1499)から永年5年(1508)までの間

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「於伊勢内宮」とあることから、神宮内での作刀と分かる。

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登録時、於伊勢「内宮」を「門宮」と読み間違えている。

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参考:wikipedia和泉守兼定

 

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