京都における東軍慰霊碑と霊名簿

京都南禅寺の金地院と、伏見の御香宮は、鳥羽伏見の戦いで亡くなった東軍戦死者の霊名簿を所蔵しており、その土地の東軍戦死者慰霊碑の前で個別に慰霊祭を行っていた。黒谷金戒光明寺にある会津藩の慰霊碑とは異なり、会津藩を含めた東軍戦死者全体をカバーしたものだった。

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今回、金地院と御香宮を訪問し、各々の資料を比較検討してみた。 比較する対象は、 A)金地院

 ①「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死者人名録」 原本は金地院所蔵

 ②「戊辰伏見鳥羽之役東軍戦死人追悼碑」 明治30年2月建立

 ③「田邊太一の撰文」 明治40年4月

B)御香宮

 ①「戊辰東軍戦死者霊名簿」  原本は御香宮所蔵

 ②「戊辰東軍戦死者之碑」 明治30年5月建立 (旧伏見奉行所跡地にあった)

 ③「田邊太一の撰文」 明治31年7月 (旧伏見奉行所跡地にあった)

 

1)「霊名簿」について 御香宮には、「戊辰東軍戦死者霊名簿」が伝わっている。

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金地院にも「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死者人名録」がある。

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両書共、幕府側の子孫で組織した京都城南会が作成した名簿である.。 両書の前文に、榎本武揚が文章を寄せているが、その文中に、 「伏見ノ野」 、「伏見の山」、「「碑上ノ金扇ハ実ニ東照神君ノ・・」、「神君馬標ヲ下ニ」とあることから、 この前文は、旧伏見奉行所跡に建立した「戊辰東軍戦死者之碑」の除幕式の際の、榎本武揚の祭文を収めたものと思われる。

両書の違いは、

①榎本の祭文の最後に、金地院の「人名録」には「明治30年 月 日」と年が記入されていること、また、「霊名簿」にある文言の一部が「人名録」には記されていないこと。

②後書きに、大正15年1月に最終的に完成した、とあるのは両書同じだが、 「明治四十年祭典執行ニ際シ」の部分は、金地院の「人名録」では「明治四十年四月四十年祭典執行ニ際シ」と、より具体的に記述されている。

③本文については、戦死者の霊名は283名記述されており、霊名の人数も記述順も同じ。 霊名各々の説明も表現は違うがほぼ同じ。但し、4名の姓名が各々一文字づつ書き写し間違いは見られる。

霊名の正確さの点では、たとえば会津藩について、黒谷の会津墓地の慰霊碑の霊名と御香宮の「霊名簿」の記述とは、霊名の数では一致していないが、霊名そのものの一致が見られることから、御香宮の「霊名簿」の方が、元の原文をより忠実に書き写したと思われる。 いずれにしろ、「戊辰東軍戦死者之碑」の建立に合わせて城南会が作成し、金地院と御香宮に奉納したが、その後も改訂が続けられ、両書とも大正15年1月の完成版を保存していることになる。

 

2)「慰霊碑」について 「戊辰東軍戦死者之碑」(明治30年5月建立)は、「京都伏見町誌」によれば、旧伏見奉行所の跡に駐屯した工兵第十六大隊兵営の東方にあった。

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この碑は、同じ場所にあった田邊太一撰文の碑(明治31年7月建立)とともに、昭和32年~36年の間に国道24号線の拡張工事が行われた際に撤去され、現在行方不明となっている。 但し、「戊辰東軍戦死者之碑」の碑の上に掲げられていた徳川の馬印扇は、現在、金地院が所蔵している。 金扇の色がわずかに確認できる。

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「霊名簿」の後書きによれば、明治24年頃の記念碑建設計画は、場所が伏見桃山麓であり、明治30年に記念碑建設とあるので、もともとの「慰霊碑」建立計画の対象は、旧奉行所の跡地へ建立した「戊辰東軍戦死者之碑」であることが分かる。 金地院には、東照宮があり、東照宮の横に「戊辰伏見鳥羽之役東軍戦死人追悼碑」がある。

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明治30年2月に第三十回東軍慰霊祭を契機に建立されたが、今でも4月の慰霊祭での関係者以外には非公開とされている。 建立者は有志とあるが、第三十回東軍慰霊祭が契機となり、また旧奉行所跡に建立された「戊辰東軍戦死者之碑」とほぼ同じ時期に建立されているので、「霊名簿」の前書きを書いた榎本武揚も当然有志に含まれよう。

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3)「田邊太一の撰文」 金地院の「戊辰伏見鳥羽之役東軍戦死人追悼碑」のそばに、田邊太一撰文の碑もあるが、これは10年後の明治40年に建立されている。この碑は、明治40年に戦場となった鳥羽、伏見、淀に、榎本武揚筆による3つの慰霊碑を建立した時にあわせて、建立されたもの。

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金地院の田邊太一撰文の碑は

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慶応丁卯十月前将軍上表還政〇朝廷嘉納更有〇優詔暫視事 如故蓋将待廣徴諸侯伯大議善後事宜也俄而事變麾下士與會 桑二藩皆不平之前将軍虞變生不測拔隊下坂而〇朝廷又遣尾 越二公傳〇旨諭納其封土促其入〇朝前将軍敬〇君志誠奉〇 命意虔乃欲率小隊上京一問〇朝旨中変之故親訴事情然方斯 時擁大兵在〇輦下者概無非敵視我者而麾下士輿會桑及諸親 故諸藩簇擁扈従者数至踰萬人心洵々遂與守闘者相鬩戦彌四 日将士死者数百今茲明治三十年志者相謀建於石標茲地以慰 雄魂而別記其本末刻之石如此死者姓名今不得悉其詳而見聞 所及載在簿冊蔵之洛東金地院云 明治四十年四月 田邊太一撰      廣瀬孫三郎書 とある。 ○の部分は一文字文スペース

意味は、 慶応丁卯十月、前将軍は政を還すと上表した。 朝廷は嘉んで納め、更に、暫し政事を故(もと)の如く視よ、蓋し将に待って広く諸侯伯を徴し大いに善後の事を議するが宜しい也との、優詔があった。 俄にして事変わり、麾下の士と会津桑名二藩は皆之に不平であった。 前将軍は変の生起と不測の抜駆の隊を虞れ、大坂に下った。 朝廷もまた尾張越前の二公を遣し、その封土を納めよと諭しその入朝を促す旨を伝えた。 前将軍は君の志誠を敬い意を奉命し、つつしんで、小隊を率い上京して、朝旨中の変更の故を一問し、親しく事情を訴えんと欲した。 然るに、その時大兵を擁し輦下に在るは、概して我らを敵視するにあらざるなし。 而して、麾下の士・会津桑名及び緒親故・諸藩簇、扈従する者を擁し数は万人を越えるに至る。 人心は洵々として、遂に守り闘うものが相争い、戦いはいよいよ四日となり将士の死者数百となる。 今この明治30年に有志の者が相謀って石標をこの地に建立し以て勇敢なる魂を慰め、別にその本末を記し之を石に刻むこと、かくの如し。死者姓名は今悉くそれを詳らかには得ていないが、 見聞するところ、記載は簿冊に在って之を洛東金地院に蔵するという。 明治四十年四月  田邊太一撰   廣瀬孫三郎書

旧伏見奉行所跡にあった碑は行方不明だが、撰文の内容は「京都伏見町誌」に記載されている。明かな誤植を直すと、

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慶応丁卯十月前将軍上表還政〇朝廷嘉納更有〇優詔暫視事 如故蓋将待廣徴諸侯伯大議善後事宜也俄而事變麾下士與會 桑二藩皆不平之前将軍虞變生不測拔隊下坂而〇朝廷又遣尾 越二公傳〇旨諭納其封土促其入〇朝前将軍敬〇君志誠奉〇 命意虔乃欲率小隊上京一問〇朝旨中変之故親訴事情然方斯 時擁大兵在〇輦下者概無非敵視我者而麾下士輿會桑及諸親 故諸藩簇擁扈従者数至踰萬人心洵々遂與守闘者相鬩戦彌四 日将士死者数百今茲明治三十年志者相謀建於銅標茲地以慰 雄魂而別記其本末刻之石如此死者姓名今不得悉其詳而見聞 所及載在簿冊蔵之伏見御香宮神社云 明治三十一年七月 田邊太一撰文

建立の年月から、旧奉行所跡にあった撰文の方が古く、撰文の内容もほぼ同じで、建立したのが石標か銅標か、「霊名簿」の所蔵が異なるだけなのが分かる。

以上をまとめると、

①「霊名簿」は、京都城南会が複数作成し、同じものを、明治30年から大正15年に御香宮と金地院に奉納した。書き写しの際に、各々何か所か写し間違いがある。

②「慰霊碑」は、明治30年に、元奉行所の敷地内と金地院に、全く別の形態の碑がそれぞれ建立された。元奉行所にあった「戊辰東軍戦死者之碑」は文字を刻んだ銅標とともに現在は行方不明

③田邊太一の撰文を刻んだ碑は、元奉行所内に明治31年に建立したが行方不明で、金地院の碑は、榎本武揚書の「戊辰之役東軍戦死者之碑」を鳥羽・伏見・淀地区に明治40年に建立したときに合わせて、建立された、

との結論を得ることができる。

 

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