岡崎公園の京都府立図書館の敷地に、京都で松陰に関する唯一の碑がある。
京都は、松陰が尊撰堂を造り志士の英霊を弔祭しようとした地だが、刑死一週間前の安政6年10月20日付の入江子遠宛の書簡によれば、この地に大学校を設立して天下の俊英を集めて国家有用の偉材を育成することを究極の目的としていた。
嘉永6年(1853)10月、松陰はプチャーチンの露艦に乗ろうと江戸から長崎に向け急ぐその途中で、その京都にて御所を拝む。
その時に作った詩の碑が、松陰の50回忌の明治41年(1908)に京都府教育委員会により建立された。
写真右の「吉田松陰先生 山河襟帯 詩碑」と銘した石標は、尊攘堂創設50周年を記念し、昭和12年に尊攘堂委員会が建てている。
碑の裏側には詩についていわれが書かれている。
詩の原本は松陰が安政3年(1856)に山県有稔(有朋の父)のために旧作を揮毫したもの。
この詩については、一部の文字が異なる詩がいくつか伝わるが、詩碑に刻まれている詩は以下の通り
山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣
不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳
敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平 従来 英皇不
世出悠々失機今公卿安得 天詔勅六師坐使 皇威被八紘人
生若萍無定在何日重拝 天日明
右癸丑十月朔日奉拝 鳳闕粛然賦之時余将西走入海
丙辰季夏 二十一回藤寅手録
山河襟帯・自然の城、東来日として神京を憶はざるはなし、今朝盥嗽(くわんそう)して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、上林零落・復た昔に非ず、空しく山河の変更なき有り、聞説(きくなら)く今皇聖明の徳、天を敬ひ民を憐み至誠より発す、鶏鳴乃ち起き親ら斎戒し、妖氛を掃ひて太平を致さんことを祈る、従来英皇世(よゝ)出で(給は)ず、悠々機を失す今の公卿、安んぞ天詔を六師に勅して、坐(ざ)ながら皇威をして八絋に被らしむるを得ん、人生は萍の若(ごと)く定在なし、何れの日にか重ねて天日の明(あきらか)なるを拝せん。
右は癸丑十月朔旦(嘉永六年十月一日)鳳闕を拝し奉り、粛然として之を賦す、時に余将に西走して海に入らんとす
丙辰季夏(安政三年夏の末) 十一回(猛士)藤寅手録
(大意)
京都は山河にかこまれた自然の城のようで、他の土地とは異なっている。
江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない。
今朝は身を清め御所を拝したが、悲しみのあまりこのまま長崎へ行くことができない。
というのも朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく、周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ。
もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられ、日出には起きて身を清め、日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると。
これまでこのような英明な天皇はいなかったというのに役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけだ。
天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ。
このように思っている私だが明日をも知れない浮草の身、ふたたび御所を拝する日が来るだろうか。
この詩は、嘉永6年10月1日に御所を拝し奉りつつしんで賦した。
この時の私は長崎に行き、露艦に乗組もうとしたそんな時だった。
参考:フィールドミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa155.html
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