尊攘堂

尊攘堂は、京都大学構内と下関長府功山寺にある。 尊攘堂の造築に関わった人物としては、吉田松陰品川弥二郎、桂弥一が挙げられる。 吉田松陰はかねて、京都に尊攘堂を建て勤皇の志士たちを祀ろうとしたが、刑死し果たせなかった。 この「尊攘堂」という言葉は、安政6年(1859)5月15日に、吉田松陰の江戸送りが決まり、それに驚いた入江九一が松陰宛の書状に「先生ドフゾ尊攘堂ノ位牌ニ成給フナ」と書いたのが、そもそもの始まりのようだ。 松陰は、同年10月20日に、処刑を前に九一に書状を認めた。その中で、「京師に大学校を興し、上天子親王公卿より武家士民まで、入寮寄宿も出来候様致し、乍恐天朝の御学風を天下の人々に知らせ」るための教育施設を作りたい、と述べる。 京都に大学校を設立するのは、天下の俊英を集めて国家有用の偉材を育成することを究極の目的としていた。 この書状は九一の手に届かなかったが、明治になりドイツから帰朝した品川弥二郎が偶然にこの書状を手にする。00.jpg 弥二郎は師松陰の意志を果たすべく、明治20年(1887)3月に、京都高倉通錦小路上ル(現在の大丸京都店北側)の邸宅を買い取り、増築した別荘の一室を「尊攘堂」と名付け、勤王の志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭典を営んだ。 これが初代尊攘堂になる。01.jpg尊攘堂の存在を示す碑。 この碑は京都高倉通錦小路に建立されていたが、今は行方不明。 「尊攘堂」を維持するため、京都の有志を中心に尊攘堂保存委員会を組織したが、明治33年(1900)2月に弥二郎が死去してしまう。そこで、委員で松下村塾の門弟だった松本鼎らは弥二郎の息子の弥一と諮って、明治34(1901)年に、京都に大学を興したいという松陰の遺志から、所蔵品は京都帝国大学に寄贈され,明治36年には構内に和洋折中の明治時代を代表する立派な建築として2代目尊攘堂が建設される。 帝国大学は、毎年春秋2回祭典を行っていたが、のちには毎年秋に小祭を執行し3年ごとに大祭を修するように変更していた。この例祭は、昭和21年まで続くことになる。 そして時代は下り昭和15年10月に、紀元二千六百年祭を記念し、尊攘堂の前に「尊攘堂」の石標が建てられた。10.jpg帝国大学に造られた尊攘堂の姿 「尊攘堂」の碑に注目 石標は戦後、進駐軍を慮って昭和20年(1945)8月21日に撤去され、行方が分からなくなっていたが,平成25年(2013)に68年ぶりに尊攘堂の建物近くの藪の中で発見される。以下の平成24年(2012)には「尊攘堂」の碑はない11.jpg12.jpg品川弥二郎の尊攘堂と収集品が京都帝国大学に寄付されたことが「尊攘堂」碑に刻まれている。14.jpgそして石標は改めて翌年12月に「尊攘堂」入り口横に再建された。20.jpg21.jpg22.jpg 旧尊攘堂の収蔵品については、尊攘堂に置かれていた松陰の木像も含め、今では大学附属図書館がすべて管理するようになっている。尊攘堂そのものは今は京都大学埋蔵文化財総合研究センターの資料展示室として使われている。26.jpg29.jpg28.jpg55.jpg ところで、 品川弥二郎は松陰の意志を継ぎ京都に尊攘堂を造ったが、長門にも尊攘堂を建てることを考えていた。 そこで、親交のある長府の桂弥一に協力を依頼する。40.jpg左が41歳ころの桂弥一 これは余談だが、 桂弥一は、曽祖母三吉トモに婿山本玉樹を紹介した人物で、その縁で曽祖父三吉玉樹と義兄弟になっている。 明治33年(1900)2月に肝心の弥二郎が死去してしまったため、弥一はその遺志を受け継いで尊攘堂の建造のため私財を投じることになる。また旧長府藩主・子爵毛利元敏や友人知人・有志の協力を得て、苦労して昭和8年(1932)10月20日に長府功山寺境内に長門尊攘堂の竣工にこぎ着けた。49.jpg51.jpg 長門尊攘堂には、長府毛利家遺品・幕末維新資料を中心に各時代各分野にわたり収集した史料が収蔵された。 幕末関係では、志士の書状や愛用品などが中心で、高杉晋作坂本龍馬のほか、久坂玄瑞山縣有朋、桂弥一の幼馴染の乃木希典等の史料が保管され、京都尊攘堂からの寄贈品・寄託品等も多く含まれている。 この長門尊攘堂は終戦後の昭和21年(1946)には財団法人先賢記念長府博物館と改められ、社会教育の一施設として再出発する、すぐに昭和25年に財団法人長府博物館に改組し、昭和55年(1980)には維持運営の安定を図るため下関市に移管され下関市立長府博物館となる。 この元長門尊攘堂の建物は、京都尊攘堂に次いで戦前の博物館施設の典型として、平成11年(1999)に国の登録有形文化財に登録される。 その後、耐震性の問題から、新たに下関市立歴史博物館が近くに建設され所蔵資料がすべてこの新館に移設される伴い、博物館の機能を失い、現在に至っている。なお、下関市立歴史博物館は平成28年(2016)11月からオープンしている。 以上のように、長門尊攘堂は品川弥ニ郎の意思を受けて造られ、その後さまざまな変遷を経験するが、特記すべきは、桂弥一は尊攘堂の建設と同時に、その隣に万骨塔を建造したことである。57.jpg58.jpg 万骨塔は、松陰や弥二郎とは関係なく、桂弥一の独自の考えで建造された。 それは、幕末から明治にかけて活躍した全国の先人を東西分け隔てなく慰霊するためで、万骨塔の周囲に有名無名の先人の故郷の石を配置し墓石と擬しその石に先人の名を刻んでいる。65.jpg会津山川健次郎を顕彰し、霊石を設置した場面。 山川健次郎の霊石の下にはもともと会津白虎隊の顕彰石が置かれている。66.jpg67.jpg この万骨塔は、賊軍を祀ろうとしない靖国神社とは異なり、国のために尽くした先人は等しく祀りたい、との桂弥一の人間の大きさが見て取れる場所となっている。 参考 70.jpg    尊攘堂並ニ万骨塔建設由来  偉人吉田松陰先生夙ニ尊攘堂ヲ京都ニ建テ勤王志士ノ霊ヲ祀リ天下ノ人心ヲ振起セムトノ志望ヲ懐カレシモ遂ニ之レヲ果スノ機会無ク濫刑ニ就カルヽニ先ダツ一週日前江戸伝馬町ノ獄中ヨリ書ヲ門下ノ俊髦入江子遠ニ寄セ学習院ヲ興起シ上ハ天子ヨリ下ハ庶人ニ至ル迄学問ノ須要ナルコト及ビ尊攘堂建設ノ必要ト方法トヲ懇切ニ説カレシコト縷々数千言。 然ルニ子遠ハ元治ノ難ニ殉ジ先生ノ遺志ハ空シク没シテ実現セザルモノ二十有余年後同ジク松陰門下ノ士子爵品川弥二郎先生偶々其ノ遺書ヲ水戸ニ得感慨措ク能ハズ独力以テ先師ノ遺志ヲ果サント決意シ直ニ京都ニ尊攘堂ヲ創設セラレキ。  品川先生ハ尚又長門ニ交通ノ便ナル地ヲ選ミ尊攘堂ヲ建設セムトノ希望ヲ抱カレ生前屡々其ノ意中ヲ余ニ語ラレ資料蒐集ニ就キ指導奨励セラレシ所尠カラズ然ルニ先生モ亦之レガ実現ヲ見ルニ至ラズシテ長逝セラレキ。 余品川先生ノ知遇ヲ受クルコト久シ先生ノ宿志ヲ継紹シテ其ノ実現ヲ期セザルベカラズ。 爾後日夜念頭ヲ離レズ苦心惨憺而シテ機会容易ニ到ラズ荏苒歳月ヲ経過ス今齢傾キ身宸フ余命幾何モ有ルナシ且近時世相険悪人心動モスレバ動揺セントスル傾向ヲ視ル此ニ於テ其ノ実現ノ急ヲ要スルヲ感ジ微力ヲ顧ルノ遑ナク遂ニ昭和五年十月二十七日万難ヲ排シ先輩ノ遺嘱ヲ果サンコトヲ決意ス。  建設ノ目的トスル所ハ京都ノ尊攘堂ト同ジク維新前後ニ於ケル勤王志士ノ霊ヲ祭リ毎年其ノ祭典ヲ執行シ極力此等志士ニ関スル史料遺墨遺品ヲ蒐集シ陳列シテ公衆ノ観覧ニ供シ以テ前賢先哲追懐ノ誠ヲ致シ国民ノ士気ヲ鼓舞振作セントスルニ在リ。 爾来年ヲ閲スルコト三タビ幸ニ長府毛利家其他有志者ノ援助ヲ得、昭和八年十月二十日開堂スルニ至リ茲ニ漸ク先輩ノ遺志遺嘱ヲ果スコトヲ得タリ。  尊攘堂ノ建設ト同時ニ相並ンデ余ガ年来ノ念願タリシ万骨塔ヲ建立セリ。 惟フニ尊王攘夷論勃興以来国家ニ貢献セシ人々ノ中或ハ栄達ヲ以テ酬イラレ或ハ芳名ヲ竹帛ニ垂レ得タル人尠カラズ。 然レドモ我国今日ノ隆運ヲ致シタルモノ一ニ是等少数知名ノ士ノミノ力ニ由ルニアラズシテ幾百千万無名ノ士ガ或ハ屍ヲ戦場ニ曝シ或ハ発明ニ創作ニ或ハ産業ノ発達進歩ニ身命ヲ賭シテ尽瘁セシニ由ルモノ多シ。 而ルニ終生轗軻不遇流離落魄ノ極涙ヲ飲ンデ黄泉ノ客トナリ英霊長ヘニ慰ムルモノナキ有リ。 所謂一将功成リ万骨枯ルノ歎ナキヲ得ズ真ニ同情ニ堪ヘザルナリ。余年来此ノ事ヲ懐フテ息マズ茲ニ此ノ塔ヲ建テヽ無名ノ士ノ幽魂ヲ祀リ永久ニ吾等ノ子孫ト与ニ国民的感謝ノ意ヲ表セムトス。 蓋シ天下余ト感ヲ同ジウセラルヽノ士多カルベキヲ信ジテ疑ハザルナリ。  塔ノ四周ニ配置安定セル自然石ハ之レヲ広ク全国ノ有志諸氏ヨリ寄進ヲ仰ゲリ。是レ一ハ以テ各地無名国士ノ墓石ニ擬シ、一ハ以テ国民的感謝ノ誠ヲ表徴セルノ意ナリ。天下同感ノ士来リ訪ハルヽ者希クハ無名愛国ノ士ノ霊ヲ慰メ幽明ヲ隔テヽ黙々裡ニ相語リ隠レタル功績ニ礼讃セラレンコトヲ。  皇紀二千五百九十三年  昭和八年十月二十日   長府 桂弥一識 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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