藤四郎のこと

史実ほど面白いものはない61130157_2057627191031678_256615555677552640_n.jpg たとえば、福岡藩の幕末の動き。 蘭癖といわれた開明的な藩主黒田長溥の考えは、「開国し政権が変わなければ日本の未来はないが、幕府は潰さず、朝廷と合同しそのまま改革すべし」という保守的な立場をとっていた。 一方どこの藩にもあるように、福岡藩内にも保守派、改革派の対立があり、幕末の状況により、主導権が動いていく。 家老加藤司書・藩士月形洗蔵・中村円太・平野国臣らを中心とする勤王党は、黒田長溥とは異なる立場の「攘夷を進め、幕府を打倒し政権を天皇の下へ戻すべし」という尊皇攘夷論を唱えていた。 また勤王党は、情勢の変化の中で、加藤司書と月形洗蔵の間で内部対立が起こり、同志討ちや暗殺行動がエスカレートし、過激な行動を取り出していく。 そんな中、慶応元年(1865)、この筑前勤皇党への弾圧(乙丑の獄)が発生する。 黒田長溥が厳罰を決意し実行したのは、長溥の信任が篤く、幕府と長州との周旋に多大な功績のあった喜多岡勇平の暗殺がきっかけだ。 慶応元年(1865)6月24日の夜、喜多岡家で暗殺を実行したのは、月形洗蔵の命を受けた筑前勤王党の伊丹真一郎、藤四郎、戸次彦之助の3人。この時、喜多岡家の隣家に野村望東尼がいて、暗殺の状況を聞き及んでいる。 喜多岡は、勤皇党と藩主・保守派との和解のために活動していたが、このことが勤王党からは保守派との内通と見なされ、暗殺されたのだった。 暗殺犯の中で藤四郎は、手にかけた喜多岡が生野の変で同志であった平野国臣の友人であり、幕府による長州征討回避に奔走した人物であったことをのちに長州で知ることになる。暗殺を大いに悔やんだ藤四郎は、平野国臣の同士でもあった野村望東尼を囚われの身からのちに救い出し、その最期を看取ることになる。 時代は下って明治元年10月2日、京都に滞在していた三吉慎蔵のもとに、かねて福岡藩士の為に尽力したことのお礼として、黒田長溥よりの安近脇差一振りを持参したのが藤四郎だった。 慎蔵が同藩士のため、どんな尽力をしたのか、調べている。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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