青天を衝け! 渋沢栄一京に上る

いよいよ尊攘派志士の栄一は八月十八日の政変直後に従兄の渋沢喜作と共に京都にやってくる。

攘夷派が衰退した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の頃に親しくなった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。IMG_3480.JPG

そしてパリ万博に出席する徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として渡航するまでの間、一橋家の家臣としてまた慶喜が将軍になってからは幕臣として出仕することになる。

当時、慶喜文久2年(1862)、14代将軍家茂の後見職となり、将軍上洛に先立って翌3年1月京に上り、幕府の立て直しに躍起となる。4月に一旦江戸に戻る、この年再び上京して、そのまま滞在し、元治元年(1864)に後見職を解かれた後も「禁裏御守衛総督摂海防御役」として、上方で重要な役割を果たしていく。

一橋徳川家の所領は、合計12万石あり、畿内と近国・播磨とで、総高の46%を占め、備中を入れると74%もの所領が西国に集中している。

京に近い近畿と近国・播磨では、摂津1.5万石、和泉1.9万石、播磨2.2万石の計5.6万石になる。

大坂城防衛という重要な軍事的役割を担っていた摂津尼崎藩や和泉岸和田藩を凌いでいた。

但しこれら所領は賄料と呼ばれ、御三卿は諸藩のような軍事力を持たなかったという点で、大名・旗本などとは大きく異なっている。

そこで、御用人足や歩兵調達が急務となり、栄一は一橋家領内を巡回し手腕を発揮する。

御用人足については、「なるべく丈夫な者」としているが、当面は戦闘を想定しておらず、のちの歩兵とは性格が全く異なっている。

徴発の人数については、村ごとの負担人数には「組請制」と表現できる仕組みがあり機能していた。ただし村の石高だけでなく、例えば現在の宝塚にあった宿場町小浜のように、石高は少ないのに人口が多い町場からは、石高以外に人口準拠と二分して各村の人数を決めている。

文久3年の最初の徴発では400人となっているが、実際に動員されたのは200人に留まっている。

一橋家は、所領の村が人足を負担しなければならない根拠を明確には示していないが、人足が在京中は、朝夕の食費を負担したほか三ヵ月間の労務に5両もの大金を支払っている。

村側は、国役負担、すなわち百姓身分に対応した役負担の一種との位置づけをしているが、役負担と位置付けていたため、最初の御用人足が帰国した際の届けで、手当金をもらったことに村側は驚き、感謝している。

ただ、最初の徴発の際の手当金が全額領主側からだったのに対し、以後の給金は村が三分の二を負担することにしている。村側が大半を負担したという意味では、御用人足の徴発は村の役負担ということになった。

御用人足に対し、歩兵は全く異なる性格を持っていた。

40歳までという年齢制限、100石に一人という徴発基準を示しつつ、その村に適任者がいない場合、適任者の多い村から代理を出すこと、武道の心得のあるものを優遇した。その際、歩兵一人一人にも士分への取り立ての道を開いている。

この一橋家の本格的な農兵組織構想に対し、村からは強い抵抗が行われた。

人選が進まず、一橋家は、渋沢篤太夫を初めて村に派遣し、ようやく形を整えた。

しかし村は、不適合な人物がいても交替しないという交換条件を取り付け、歩兵組立を急ぐ一橋家と玉虫色の決着となった。

慶応元年(1865)10月には歩兵の再組立が行われ、この時も村側は困難であるとして反対運動をしている。

害獣駆除を目的とした威鉄砲の保有者は、文久3(1863)9月に徴発した人足でも詳しく調査されていたが、慶応元年4月と10月には銃の扱いに精通ししている者で鉄砲組が組織されている。

兵に対する手当は、領主から支度料5両、村方餞別が2両であった。

「青天を衝け」では、

村に対する武士の傲慢な支配に対し反感を抱いていた渋沢栄一が描かれていたが、さて士分に取り立てられた栄一が、村に対してどのように振舞うのか、そこが描かれるのか否か、注目したいと思う。

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