旧東海道を歩く 11日目(12/3) 袋井~島田
袋井宿から、掛川宿、日坂宿を通り、小夜の中山を越えて、金谷宿をから大井川越えまでの35キロを歩く。
アップダウンの多い道程になる。
0740地元の人の吹くホラ貝に送られて、袋井宿の東本陣跡を出立。
0743「東海道どまん中茶屋」を通リ過ぎて袋井宿を抜ける
0746新屋の秋葉山常夜燈
屋根瓦にしゃちほこが付いた、木造屋形常夜燈。袋井には14基の秋葉常夜燈がある。
0754袋井の松並木
0810袋井の久津部一里塚を通り過ぎる。
お江戸まで58里。
袋井東小学校の敷地内にあり、創立100周年で整備された。
0811妙日寺前を通る。
この寺には日蓮の両親の墓がある
0820富士浅間神社の赤い鳥居
平安時代、坂上田村麿が東国平定をここで祈願し、成就したので本殿を寄贈した。
0826これはゴミステーション(ゴミ集積所)
0849間の宿・原川
ここにも松並木が続く。
0915大池一里塚跡を通過する。日本橋までは57里。
0945掛川宿に入る。
掛川宿は、戸数960戸、人口3,443人(うち男1,634、女1,809)、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠30軒から成っている。広重は白文印に「秋葉山遠望」として、秋葉山を遠くに描いている。手前の、逆川(あるいは塩井川か)にかかる土橋のたもとの献燈も秋葉山信仰のものと思われる。旧東海道を歩いてみると、秋葉山常夜燈が街道沿いに多く残っており、愛宕神社と並んで火難(火伏せ、防火)信仰が当時盛んだったことが分る。
掛川は古くは懸河という。町の中心を流れる太田川の支流の逆川を古くには懸河といい、この川の両岸に切り立った懸崖が多いことから名づけられたのではないかという。
掛川城前で記念写真を取って
出発し、しばらく歩いて掛川宿を離れる。
1033葛川一里塚跡を通過、日本橋まで56里
1136伊達方一里塚を通過、日本橋まで55里
実際にはもう少し西側に街道の両側に築かれていたが、明治33年に壊されている。
1240昼食を終え、日坂宿に向かう。
1253日坂宿に入る、
戸数168戸、人口750人(うち男353、女397)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒からなる。
日坂宿は、東海道中の難所のひとつ、佐夜の中山の西麓に位置する。この地は初め西坂(にっさか)といったがのちに日坂に改められたという。
下木戸(日坂宿の入口)
高札場
旅籠「川坂屋」
川坂屋は上級旅籠で士分格の宿泊所、山岡鉄舟、巌谷一六、西郷従道等が書を残している。
日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸
問場屋跡
本陣「扇屋」
秋葉常夜燈
日坂宿はしばしば火災に遭っているため、火伏の秋葉信仰が盛んだったという。
1301日坂宿を離れ、30度の日坂を越えて行く。
1315広重の「日坂」にも描かれた有名な「夜泣石」跡
「夜泣石」の現物は、今は国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇にある
1326日坂のシンボル粟ヶ岳に「茶」の文字が見える。この辺りの周囲の景観はまことに雄大。
1335小夜鹿一里塚、日本橋まで54里
東海道のルートは時代とともに変更もあったが、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では52里、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では54里になる
有名な西行の歌碑
年長けて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり さよの中山
扇屋
久延寺
1349峠を越えて、箭置(やおき)坂を下る
掛川市から島田市に入る。
1403日坂宿と金谷宿との間の宿・菊川
1420江戸時代の石畳160mも含め600mも続く菊川坂を登る。
登り終えると、金谷坂へ向かう。
1440金谷坂の石畳を下り終える
1456金谷宿に入る
金谷宿は、戸数1,004戸、人口4,271人(うち男2,074、女2,197)、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒から成る。
1500金谷一里塚跡を通る。日本橋まで53里
1522金谷宿川越し場から、「越すに越されぬ」大井川へ向かう。
江戸時代幕府により大井川の架橋・通船が禁じられたため、川越え人足の手助けで川越えするしかなかった。
川越え人足という職業は危険で、もし誰かが川越え人足の過失で流れに呑まれでもしたら、当人は死罪になる。
1528大井川を1,026mの橋で渡る。
1539大井川を渡り終え島田宿へ、本日はここまで
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」