旧東海道を歩く 10日目(12/2) 浜松~袋井

浜松宿から、天竜川を渡り、磐田、見付宿を通り袋井宿まで、26キロを歩く。
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浜松の地は、万葉集に「ひき馬(ひくま)」と謳われ、また平安時代の『和名抄』には「波万万津」とみえる。 鎌倉時代の阿仏尼の『十六夜日記』には、「今宵は引馬の宿といふ所にとどまる。此の所の大方の名をば、浜松といひし」とある。 浜松の名は、「波万万津」のように浜の津、浜の船着き場からでたか、浜の枝ぶりの良い松が多かったことからついたようだ。 いずれにしろ、家康が浜松の城を所有し、駿府に移ったあと、老中や譜代大名12家が役6万石を領し、本陣を6つも持つ大宿場に成長した。 0830浜松宿を出立する。
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次宿の見附までは、4里8町あり、箱根関~小田原宿の距離と同じで、東海道で一番宿場間の距離が長い。 0901馬込川を渡って浜松宿を抜けると、すぐに馬込一里塚跡を通る。
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お江戸まで65里。 過って路の両側に9mの土塁があって松や榎が植えられていたが、明治9年(1876)に取り壊されている。 0932浜松アリーナの近くにある浮世絵の看板
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1001立場の看板を過ぎる。浜松宿と見附宿との間の立場は実際にはもう少し西にあったらしい。
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1014天竜川の治水工事に全財産を投じた金原明善の生家を見学する
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1022松林寺前の高札場跡を通る 松林寺には家光の命で建立された薬師堂がある。
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1038天竜川を渡る。浜松市から磐田市に入る。 はるかに、雪をかぶった富士山が見えてきた。
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1136秋葉常夜燈を過ぎる。龍の彫り物があるので、龍燈とも呼ばれる
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1145磐田の宮之一色1里塚跡を通る。 日本橋まで62里
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1209JR磐田駅前に到着
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1258昼食後、磐田を出立。 1317国指定史跡の遠江国分寺跡を通る。過って見附が遠江の中心だったことが分る
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1325見附宿に入る
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見附宿には、戸数1,029戸、人口3,935人(うち男1,895、女2,037)、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒があった。 見附は、天竜川の渡河の要地として古くは伊摩の駅といったが、見附と称されたのは、この地形が狭長で、その高所から富士の雄姿をよく望めたことので見附台という、あるいは西からの旅人が美しき富士を見つけたので、見附といったとか、言われている。 脇本陣の大三河屋門
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国指定史跡の旧見附学校 現存する日本で一番古い小学校。明治8年(1875)開校で、木造の洋風建築。
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北本陣跡、道を挟んで南側には南本陣があった。
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問屋場
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1357見附宿を抜け、袋井宿に向かう。 この愛宕神社の山下の左側に見附宿の東の木戸があった。
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またこの木戸の近くに一里塚跡があり、日本橋までは60里となる。 1428三ケ野古戦場跡を見学する 元亀3年(1572)遠江に進出した武田信玄徳川家康との戦場
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1500木原畷古戦場跡を通る、家康が腰かけた石がある。 元亀3年(1572)遠江に進出した武田信玄に家康が大敗を喫した三方原の戦いの前哨戦になった場所
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木原1里塚(江戸まで59里)を通る。
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1524袋井宿に到着
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袋井宿は、戸数195戸、人口843人(うち男379、女464)、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠50軒から成る。
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袋井は、西部が南北に連なる太田川の広い沖積地であり、その支流の原野谷川の低地は東西に長く、宇刈川との3川の合流した地で、堤防に囲まれ袋のようであること、またその中の水田に地下水が井戸水のように湧き出ることから、袋井の地名が付いたといわれる。 袋井宿は、東海道の宿駅が設置されてから15年ほどの元和2年(1616)、見附と掛川との宿間が遠いので、この地にあった茶店をもって駅家となした。広重の描く茶店はあたかもその茶店かのように思えても来る。
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参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道
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