二川宿から、白須賀宿、新居宿、舞坂宿を通って、浜松宿まで、36キロほど歩く。
二川宿は、遠江国へ入る三河国の最後の宿になる。
宿駅業務は、当初、二川村と大岩村で行っていたが、二つの村は12町(1.3キロ)離れていて、距離を隔てた継立は不便だったので、寛永20年(1643)に両村がそれぞれ東西から移動し、吉田藩が幕府領となって、一体となった。
二川が本宿で、大岩が加宿。本陣、脇本陣、旅籠はすべて二川に在って、大岩での宿泊は認められなかった。
0825二川宿を出立する。
0916一里山の一里塚(日本橋まで71里)跡を通過する。
0948三河と遠江の国境の境川を越え、遠江国に入る。
0954遠州の白須賀宿に入る。
白須賀の白は、海岸の貝殻や小砂などをいい、須は洲が本来の字。賀は接尾語。類似の地名は横須賀など。
『東海道名所記』に、「東国の俗語に、沙(すな)のあつまりて小高きをば、須賀といふなり。宮の渡しより廻る佐屋の入り口にも、須賀といふ宿あり。蜂須賀などいふもおなじ。洲といふ心なるべし。賀は語の助字(たすけじ)なり」といっている。
白須賀宿は、戸数613戸、人口2,704人(うち男1,381、女1,323)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒から成る。広重の図は、有名な景勝地「汐見坂」を描いている。
国学者・夏目甕麿(みかまろ)邸跡。 家業は酒屋で、本居宣長に学ぶ。
脇本陣と本陣跡
1009曲尺手で、白須賀宿を抜ける。
1018しばらく進むと資料館兼案内休息所のおんやど白須賀が見えて来る
1024有名な潮見坂を600m下る。この坂からは遠州灘・太平洋が見える。
白須賀は57mの高さの高師の山の台地にある。その南側が海蝕崖として知られる潮見坂の急坂で、従って景勝の地でもある。西国から江戸に向かっていたケンペルは白須賀に来て、世界中で最も美しい山・富士山が初めて見えてきたと述べている。
潮見坂を下ると、元白須賀に入る。
ここは、元宿場があったが、宝永4年(1707)に地震と津波の被害を受け、宿場ごと潮見坂上の台地(白須賀宿)に移転している。
1057白須賀宿と新居宿との間の休息所である立場を通る
1140新居宿の西の境の棒鼻に到着。
棒鼻は、駕籠の棒先の意味らしい。大名行列が宿場に入るときに、ここで先頭(棒の先)を整えたので棒鼻と呼ばれるようになった。
新居宿は、戸数797戸、人口3,474人(うち男1,776、女1,698)、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠26軒から成る。
広重の図は、約一里の海上の渡しで舞坂から西方の今切へと渡る図で、荒井の宿と向かう渡し舟を描いている。一隻は大名行列を乗せている。手前の足軽を乗せている船の漕ぎ手の左手があり得ない掴み方をしているのが気になる。
新居の地は、浜名湖の西南岸で、東方に突出した小半島の先端の場所にある。遠州灘から打ち寄せる波浪が荒かったから、赤江、荒井、荒堰と呼ばれてきたが今は新居となっている。
一里塚跡(日本橋まで69里)
ここには榎、向かいの塚には松が植えられていたという
疋田八郎兵衛本陣と飯田武兵衛本陣跡
高札場跡と、新居関所(正式名称は今切関所)
箱根の関と並んで関所での取り締まりが厳しく、逃れるため、浜名湖の北方の湖岸を迂回(姫街道)するものが多かったという。また、江戸時代、縁談の調った女は、「今切れ」の名を忌んで今切関所を避け、姫街道を歩いたともいう。
1300新居宿で昼食後、出立。
弁天橋を渡り、舞坂宿に入る。
舞坂宿は、戸数541戸、人口2,475人(うち男1,254、女1,221)、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒から成る。
舞坂宿は、三方が海に囲まれ津波や高潮の被害が多かったため、石垣や土塁を築いて守る「宿囲」の形を取っていた。
脇本陣
仲町常夜燈
一里塚(日本橋まで67里)
新町常夜燈
見附石垣
ここが舞坂宿の東端
1332舞坂の松並木
700mの間に松が330本植えられている
このあと、ほぼまっすぐな街道を8キロほど歩く
1434篠原一里塚跡(日本橋まで67里)を通過
篠原立場跡を通過
この立場は、立場本陣ともいい、大名など身分の高い者が休息をした。
麦飯長者屋敷跡
堀江領境石と浜松領境石
秋葉常夜燈
1600浜松宿に入る。
残念ながら先の戦争で空襲に遭い町全体が焼けたため、江戸時代の面影は何も残っていない。
浜松宿は、戸数1,622戸、人口5,964人(うち男2,932、女3,032)、本陣6軒、脇本陣0軒、旅籠94軒から成っていた。
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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