旧東海道を歩く 18日目(12/10) 保土ヶ谷~品川

保土ヶ谷宿から、神奈川宿、生麦村、川崎宿を経て、品川宿まで28キロほどを歩く
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保土ヶ谷宿は、戸数558戸、人口2,928人(うち男1,374、女1,554)、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒から成る 0820保土ヶ谷宿を出立、神奈川宿までは4.9kmほど
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0905神奈川宿に入る 神奈川宿は、戸数1,341戸、人口5,793人(うち男2,944、女2,849)、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠58軒から成る
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神奈川宿は、神奈川道・稲毛道という脇往還の起点でもあり、御菜八ヵ浦のうちのーとして幕府へ御肴献上をする由緒ある神奈川猟師町をもち、関西・尾張方面からの千石船が停泊する神奈川湊(袖ヶ浦)が物資の集散地としても栄えるという東海道でも有数な宿場町だった。 神奈川関門跡碑 (左)
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実際の関門はやや西より(坂道のピークの辺り)にあった。 横浜開港後、外国人殺傷事件が頻発したことから、安政6年(1859)横浜周辺の主要な地点に関門や番所が設けられた。神奈川台の関門は神奈川宿の西側の関門になる。 上方見附跡は所在が分からないが宿場の入り口であることから、関門の位置と同じと思われる。
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袖ヶ浦見晴所碑と歌碑 (右)
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神奈川台の南下(現在の横浜駅も含む一帯)は内海で、袖ヶ浦とよばれた 街道の茶店から江戸湾を望む眺めは、「武蔵国第一の景勝」と絶賛された。ここには江戸時代前期の公卿・歌人権大納言烏丸光廣の歌碑「思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは」も建つ。 料亭田中屋 広重も、「東海道五十三次 神奈川 台之景」で、前身の旅館「さくらや」を描いている。田中屋は文久3年(1863)、横浜の開港に伴って埋立・開発が始まった頃、さくらやを買い取って旅籠を創業した。田中屋には、坂本龍馬の妻:おりょうが仲居として勤め、その写真もあるというが、史実としては確認できていない。
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0918大綱金比羅神社の一里塚、日本橋まで7里。
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この一里塚から先の街道沿いには、、横浜開港時、各国の領事館などになった寺が並んでいた。 本覚寺(アメリカ領事館、文久2年の生麦事件の際、重傷を負って逃げ込んできたマーシャルとクラークのイギリス人2人を居合わせたヘボン博士が治療している)、甚門寺(イギリス士官の宿舎)、甚行寺(フランス公使館)、宗興寺(ヘボンの診療所)、慶運寺(フランス領事館)、長延寺(オランダ領事館)などなど。 0955神奈川宿を抜け、生麦に向かう 文久3年に貞秀が、生麦から神奈川に向かう大名行列を描いた浮世絵。 横濱が示されており、当時は東海道の脇に生麦から神奈川まで海岸線があるのが分る。 おそらく、文久2年8月21日の生麦事件の当事者の島津久光の行列もこんな感じだったのだろう。
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生麦事件は、文久2年(1862)8月21日に、武州橘樹郡生麦村(現横浜市鶴見区生麦)でイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件。 生麦事件のあらましは、 江戸からの帰りの島津久光公の行列に、川崎方面に向かうイギリス人4人(リチャードソン、マーシャル、クラーク、ボロデール夫人)が騎馬で乗り入れた。お互いに言葉も通じず、4人は鉄砲隊も突っ切り、久光の駕籠近くで供回りに斬リつけられる。 リチャードソンは、奈良原喜左衛門に最初の一撃を与えられ、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休により抜き打ちに斬られる。桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、「もはや助かるまい」と介錯のつもりで海江田信義にとどめを刺された。 マーシャルとクラークも深手を負ったが、ボロデール夫人は一撃を受けてはいたが帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは馬を飛ばし、神奈川宿アメリカ領事館のある本覚寺へ駆け込み助けを求め、ヘボンの手当を受ける。 この生麦事件は、のちに薩英戦争を誘引し、その後には薩摩とイギリスとの接近をもたらしたことから 幕末の重要な転換点のきっかけになった事件となる。 1030旧道と国道の分岐点を通り過ぎる
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傷を負ったリチャードソンが遂にここで落馬し、海江田信義に留めを刺された場所で、旧東海道沿いの集落のはずれになる(神奈川宿寄り)。
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ここには明治16年に「生麦事件之碑」が建立してあったが、高速道路の建設で一時的に移転している。 1032村田屋勘左衛門宅跡辺り リチャードソンはこの前で、鉄砲隊の久木村治休から抜き打ちで2度目の太刀を浴びる
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1035一時的に移転している「生麦事件之碑」
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1043生麦事件発生現場、久光の駕籠近くでリチャードソンらが切りつけられた場所
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1127鶴見橋関門跡 安政6年(1859)6月横浜開港とともに取締のため設けられた関門(設置は万延元年(1860)4月)
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1134市場一里塚を通り過ぎる、日本橋まで5里
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柵で囲われ地元で大切に保存されている
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1147八丁畷の由来碑 市場村(現横浜市)と、川崎宿の京都口との間の八丁ある街道
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1151川崎宿に入る
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川崎宿は、戸数541戸、人口2,433人(うち男1,080、女1,353)、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠72軒から成る. 川崎宿が正式の宿場になったのは、元和9年(1623)のことでそれまでは東海道は52次だった。
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1300昼食後、川崎宿を出立
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1315六郷を渡る
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。 1429大森の里程標 「旧東海道 日本橋より 三里八丁」
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1435旧東海道(三原通り)を通る
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1513鈴ヶ森刑場跡 慶安4年(1651)に開設された御仕置場の跡。丸橋忠弥、平井権八天一坊改行、八百屋お七白木屋お駒など、江戸時代220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたという。火炙台、磔台の穴、首洗の井戸などがある。
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1528品川宿の手前の立会川に到着 涙橋 鈴ヶ森刑場で処刑される罪人の親族らが江戸府内から密かに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたことに由来するという。
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1530浜川砲台跡 ここで、小美濃清明氏の講演「阪本龍馬と浜川砲台」の講演を拝聴
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1600立会川の坂本龍馬像を拝見して、明日に余裕を残し、本日は歩き27キロで打切り。
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参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道
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