品川宿から、いよいよ旧東海道東下りのゴールの日本橋まで歩く
本日の最終コースはよく親しんだ場所で、特に田町の近辺は小学、中学、高校、大学時代に暮らしていた場所でもあるので、土地勘がある地域になる
日本橋到着後は、千葉定吉の道場跡を経由して旧土佐藩邸のあった東京国際フォーラムに向かい、そこで完歩式典を行って、15時に「平成の龍馬!東海道をゆく」のイベントは終了し解散する。
0820まず山内容堂公のお墓をお参りし、旧東海道品川宿に向かう
お墓のある場所は、在職中に月1回の頻度で出張していた大井町ビルから直線で200mほどの所にある。
0835品川宿に入る
品川宿は、戸数1,561戸、人口6,890人(うち男3,272、女3,618)、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒から成る
宿の上方口には、東海道と直角に海晏寺への参道があり、岩倉具視墓所を示す石碑が建つ
岩倉具視は、明治16年7月20日に没するが、三吉慎蔵日記にその関係記述がある。
右大臣岩倉具視が明治16年6月28日に病で横浜に到着する。
三吉慎蔵は、小松宮と北白川宮能久親王の両宮名代として、同日お見舞いに行く。
7月20日午前、慎蔵は北白川宮の名代としてお見舞いのため参殿する。
岩倉具視はその日午前7時過ぎに薨去している。
慎蔵は、7月25日、午前6時に葬儀の御先着として品川海晏寺にいく。
休息所が海雲寺に設らえてあるので、海雲寺にて控え、着棺のときに出迎えて、墓所に参集する。
そして、梨本宮と北白川宮の御代拝を勤める。
海雲寺
岩倉具視の葬儀の際に、休息所となった寺
ここには、有名な平蔵地蔵がある。
大金を拾った正直な乞食が番所に届け出るが、謝礼を断る。仲間の乞食が怒って小屋から追い出し、平蔵は凍死してしまう。
経緯を聞いた落とし主が弔う為に建てた地蔵。
0848品川寺
江戸六地蔵といわれる地蔵が見える。座高は2.75m。
幕府御用宿釜屋跡
品川寺の向かいにあり、永井尚志、土方歳三など幕府関係者が多く利用した旅籠。
慶応4年1月(1866)の鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組隊士たちは、同月15日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在した。
0910品川宿本陣跡
0929土蔵相模跡
高杉晋作や久坂玄瑞たちが、御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ちする密議に利用していた妓楼
0933品川宿を離れる、江戸口にある案内図
0944JR品川駅
駅前に品川駅創業記念碑がある
1003泉岳寺に寄り道する
大石内蔵助の像
1019高輪の大木戸跡を越え、いよいよ江戸入り。
1033僕が小学6年から中学3年まで暮らしていた薩摩藩蔵屋敷跡
三菱自動車本社ビルと隣の徳栄ビルとの間の平屋の1軒に暮らしていた
1048金杉橋の近所にも住んでいたことがある
1105新橋駅の近くで東海道線をくぐり、銀座に入る。
1109銀座8丁目、あとは 中央通りを日本橋まで一直線
1118銀座4丁目通る
1136京橋を通りすぎる
1150旧東海道の目的地・日本橋に到着
このあと、福徳神社を参拝し、千葉道場玄武館跡を巡り、旧土佐藩邸(東京国際フォーラム)にて完歩式典を行い1500に解散した。
完歩状を頂く
12/13付読売新聞記事:
友人が撮影し纏めてくれた取材動画:
https://www.youtube.com/watch?v=Zfiu2lVrZRg
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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