大磯宿から、平塚宿、藤沢宿、戸塚宿を経て東戸塚まで歩く
大磯宿は、戸数676戸、人口3,056人(うち男1.517、女1,498)、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠66軒から成る
東の平塚宿とは2.9km、西の小田原宿とは15.7km離れている。大磯は既に鎌倉時代に宿場町として栄えた。
0800大磯宿を出立
0807化粧(けはい)坂の江戸見附跡を過ぎて、大磯宿を離れ、松並木を通る坂といっても今は平地。古い頃の化粧坂は十数町西方にあったという。
0812大磯八景の碑
0814化粧坂の一里塚跡、日本橋まで16里
0815化粧井戸
虎御前が汲んで化粧したと伝わる井戸
旧東海道には、曽我兄弟の話が残るが、この虎御前もその一つ。
『吾妻鏡』によると、建久4年(1193)5月28日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、6月1日に兄の曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されている(建久4年6月18日条)。鎌倉時代の遊女は「白拍子」といい、江戸時代の遊女と違い、詩歌管弦に長じていた。
0827花水川を渡り、京方見附跡で平塚宿に入る。
平塚宿は、戸数443戸、人口2,114人(うち男1,106、女1,008)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒から成る
平塚市内は戦時中に爆撃を受け、江戸時代の建物は殆ど残っていない。
0839平塚宿本陣旧跡
間口30m、奥行68m、
14代将軍家茂は文久3年2月公武合体の実現を図り上洛したときと、元治2年5月の帰府のとき(往きは海路)の2回、明治天皇は明治元年10月、明治2年3月の2度、東京行幸と遷都に際して小休されたと記録にある。
高札場跡
脇本陣跡
0854江戸見附を通り、平塚宿を離れる
宿の長さとして京方見附から約1.1kmある。
0923馬入川を渡る。
江戸時代、幕府は相模川(相模川は馬入橋から下流を馬入川と呼ぶ)の架橋を禁じ、馬入の渡しで渡った。馬入川のネーミングには謂れがある。稲毛重成が亡妻(北条政子の妹)の供養のために橋を新造し、その供養の日に将軍頼朝に渡り初めをしてもらったが、その帰路に落馬してそれがもとで頼朝は亡くなる。馬が河に入ったとして馬入川の俗称が生じた。
1000南湖の左富士
東から来ると、茶屋町を過ぎて道は大きく右にカーブし北西に向く。そのため富士が左側に見える。
左富士はここ南湖と吉原が有名。
平塚宿と藤沢宿の間は3里半あり、その間に八幡、南湖、牡丹餅、四ツ谷の4つの立場があった。
1027茅ヶ崎の平成の一里塚を通りすぎる。江戸まで13里
1053茅ヶ崎の黒松並木
1101牡丹餅立場
1125藤沢に入る
1132藤沢の一里塚跡を通り過ぎる、日本橋まで12里
1134四ツ谷
江の島・鎌倉への道と交わる。往時の立場の風情は今はない。
1210上方見附跡を通り、藤沢宿に入る。
藤沢宿は、戸数919戸、人口4,089人(うち男2,046、女2,043)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒から成る鎌倉時代の古東海道は海岸近くを通っていたので当時の藤沢の中心地は離れていたが、一遍上人によって時宗が開かれ、のちに時宗の総本山としての清浄光寺(遊行寺)が創建されて以来、門前町して発達して往来が開け、江戸時代の東海道がその集落をもとにしてなされるの及んで、、宿場町として一段と繁盛した。
1313昼食後 、ケンペルもお参りしたという遊行寺を見学し、藤沢宿を出立
遊行寺のイチョウの大木は推定樹齢6650~700年なので、ケンペルも見学している。
1321道場坂(遊行寺坂)730mの途中にある一里塚跡
1331旧東海道松並木、藤沢から戸塚まで延々と続いていた「八丁並木」の一部
この松並木を最後に日本橋までの松はすべて消失している
1343横浜戸塚に入る
1449上方見附跡を通り、戸塚宿に入る
戸塚宿は、戸数613戸、人口2,906人(うち男1,397、女1,509)、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠75軒から成る
江戸時代は、日本橋を七つ(午前4時頃)に出立して、一日10里を歩き、最初の宿を戸塚宿とするのが普通だった。旅籠の数も、江戸へ入る品川宿(93)を別とすれば、川崎宿(72)、神奈川宿(58)、保土ヶ谷宿(67)よりも多い。
1500戸塚宿渡邊本陣跡
1537江戸方見附を通り過ぎ、戸塚宿を離れ、東戸塚まで歩く
本日はここまで
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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