旧東海道を歩く 8日目(11/30) 藤川~二川

藤川宿の先の長沢から赤坂宿、御油宿、吉田宿を通って、二川宿まで27キロを歩く。
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広重の「藤川」には、東の棒鼻が描かれている。棒鼻は宿場への入り口を示していて、そこに10尺(3.3m)の傍示杭(ぼうじぐい)を立てた。「自是岡崎藩領 藤川宿」と書かれている。棒鼻より外は街道、内側は宿場。 棒杭の左に立っているのは関札で当宿に止宿する予定の大名名が書かれている。 宿の入り口なので、城への入り口を真似て、道の両側に枡形に石垣を積みその上に土塁を築き、その上に柵が結ってあった。 宿場に入ろうとしているのは8月1日幕府より朝廷に馬を献上する八朔御馬献上の一行で、先頭に先払い、次に先箱(挟箱)持ち、そして献上する2頭の黒と茶色の馬が続く。馬の背には覆いをかけ、蔵には御幣が立ててある。 重要な一行の通過は前もって宿場に通知があり(先触れ)、登板の宿場役人が棒鼻まで出迎えることになっている。 0835長沢 を出立。昨日より寒い。この日最高温度は10度。
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0902赤坂宿を通る。
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戸数349戸、人口1,304人(うち男578、女726)、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠66軒
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赤坂宿は旅籠が多い。広重は、庭の蘇鉄の木、石灯籠越しにくつろぐ旅人達と飯盛女など旅籠の様子が詳しく描いている。広重の保永堂シリーズの組物の図中で旅籠の屋内を描いたのは本図に限られる。 大蘇鉄で名高いこの旅籠は村木屋と称し、明治までも続いたが、中頃火災で焼亡したという。 旅籠大橋屋 現存する日本唯一の江戸建築の旅籠屋で、東海道では唯一営業していたが残念ながら2015年3月15日に廃業した。広重の図絵に描かれた蘇鉄は、明治20年頃道路拡張のときに、大橋屋に移され、さらに数代前に浄泉寺に移植したという。
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江戸の「赤坂」は、この宿場町の出身者が多くいたため、その地名がつけられている。
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赤坂宿陣屋跡
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赤坂宿には、江戸時代、三河一国の幕府領を治める代官陣屋がおかれた。明治維新で陣屋は廃止されたが、三河県庁がおかれ、明治4年に額田県に併合されれまで、三河地方の政治の中心地であった。 国鉄東海道線の敷設に反対したので、以後急速にさびれた。 0907問屋場跡、現在は高札が立てられている。
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その向かいには3軒の本陣のなかで一番大きい彦十郎本陣があった。
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0915赤坂宿の東見附跡を過ぎると直ぐに、天然記念物・御油の松並木が見えて来る。
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御油の松並木もよく保存されている
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赤坂宿と御油宿とは、16町(役1.7キロ)しか離れておらず、五十三次の中で最も短い。 「夏の月 御油より出でて 赤坂や」との芭蕉の句がある。夏の短い夜と、両宿の間の短いことをあわせ詠んでいる。 伝馬朱印状は、1宿に1通だったが、御油・赤坂は2宿併記の1通だった。西に行く場合は御油を飛ばし赤坂で、東に行くときは赤坂を飛んで御油の宿泊だった。 0932松並木を過ぎ、しばらくすると、御油宿に入る。
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御油の地は、東海道の本道と、豊川を通って本坂峠へ通じる脇往還の本坂街道(いわゆる姫街道)との分岐点、つまり追分宿(街道の左右に分かれる所の宿場)でもあったので、非常に繁盛し、戸数316戸、人口1,298人(うち男560、女738)、本陣4軒、脇本陣0軒、旅籠62軒あったという。 男性560人に対し女性が738人と女性の方が多かった。これは旅籠が多く飯盛女が多かったからで、広重の「御油宿」にも、「留め女」と云われた強引な客引きが描かれている。
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面白いのは、図中に、広重の印も「竹内」とあり、旅籠の大丸障子にも「竹之内板」と出版元を示し、上の掛札の右から「東海道続画」、「彫工治朗兵ェ」、「摺師平兵衛」、「一立斎図」と並べ、共同工作の人々を列記している。 御油宿は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみに江戸通い」と遊興でも有名な宿場でもある。 但し明治になって、東海道本線を敷設することを、御油、赤坂、藤川、岡崎の4宿が揃って忌避したため、今は静寂な街村をなしている。 0942花・ドイツ人医師ベルツゆかりの地
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三吉慎蔵も世話になった医師ベルツの妻所縁の場所で、ベルツの妻・花の実父熊吉の生家跡になる。 この地の向かいに、高札場があった。これから御油宿を離れる。
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0944御油橋を渡る
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1105豊川の伊奈の一里塚(日本橋まで75里)を通リ過ぎる。
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1108伊奈村の立場茶屋の跡
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茶屋本陣ともいい、御油宿と吉田宿との中間になり、立場が設けられた。 明治天皇が東京遷都のときにも休息している。 1133豊川放水路を渡り、豊橋に入る 向こうに見える尾根は愛知と静岡の県境
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1205豊川稲荷遥拝所 遥拝所の横は、豊川稲荷への道
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1207豊川を渡り、しばらくして吉田宿に入る。
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吉田宿は、戸数1,293戸、人口5,277人(うち男2,505、女2,772)、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒
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吉田が豊橋に改称したのは明治維新で吉田藩が消滅した明治2年(1869)。 広重の「吉田」には工事中の吉田城と大きな橋が架けられた豊川が描かれている。 1315昼食後、吉田宿を出立 吉田宿本陣跡
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江戸まで74里
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1408寿泉寺の三重塔を見学
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1444飯村1里塚跡(日本橋まで73里)を通過
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。 1535JR二川駅前を通る
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1541二川宿に到着、戸数328戸、人口1,468人(うち男721、女734)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38件
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東海道中膝栗毛』には、「ここは猿がばんばにて、かしわもちの名物なれば」とあり、広重も「かしわ餅」の看板の茶店を描いている。 東海道には江戸後期には本陣は111軒あったが、現存するのは、草津宿田中家本陣と二川の二か所のみ 本陣が資料館となっており、展示を拝見した。
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参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道
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