池鯉鮒宿を出立し、岡崎宿を通り、藤川宿まで25キロを歩く。
0840池鯉鮒宿を出立。
問屋場跡
0907広重の描く「池鯉鮒宿 首夏馬市」の碑の説明を拝聴している。
池鯉鮒(知立)は三河木綿の集散地として、また馬市としても賑わったという。
万葉歌碑「引く馬野の歌」碑もある。
これから有名な池鯉鮒(知立)の「並木八丁」と呼ばれた170本の松並木を500mほど歩く。よく保存されていることに驚く。
池鯉鮒は、京都から41里、江戸から84里とある。
0930来迎寺1里塚(日本橋まで84里)を通り過ぎる。
ここも道の両側に塚が残っている。塚は、高さ4m直径9mの立派なもので榎でなく松が植えられている。。
一里塚のちょっと手前奥に、赤穂浪士の吉田忠左衛門夫妻の墓があったが、お参りする余裕はない。
0957青麻神社を通り過ぎる。
大銀杏と化粧まわしの力士像は、明治初期に東京大相撲で活躍した濱碇の記念碑
1130岡崎市矢作の安城街道に入る。
矢作(やはぎ)は、矢矧あるいは矢矯とも書き、その名は、日本武尊の東征のとき、この地で矢を多く作らせたことにより名づけるという。
1147俗説ではあるが蜂須賀小六と日吉丸の「出会之像」にて集合写真を撮る
1201矢作川を越え、岡崎宿に入る。戸数1,565戸、人口6,494人(うち男3,081、女3,413)、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。
広重は、矢矧川の西側から岡崎方面に向かって、208間と言われた有名な橋をやや曲線をえがいて描いている。
岡崎は、愛知県の東北部にある三河高原の中を南方へと流れる矢作川と、支流である太平川(男川、乙川また菅生川)とが合流する場所に立地している。三河高原の、丘の先端であることから岡崎と呼ばれている。
岡崎は、幕臣の末裔としては、何となくなつかしさが募る土地である。
1300昼食を終え、岡崎宿を出立、
1316乙川越しに、家康が生まれた岡崎城を望む
1341岡崎宿の中心部・伝馬町を通る。
1357冠木門二十七曲碑を過ぎる
岡崎城下二十七曲の終わりであるが、二十七曲の目的は、外敵防禦にあった。
敵に城下を把握させにくくするのと同時に、街道の距離を長くすることにより、店が並んで岡崎宿はにぎわった。
1430大平1里塚(日本橋まで80里)を通り過ぎる。参勤交代で大名が通過するとき、使者を立てここで送迎の礼をさせたため、「御使社場」と云われた。
同じ大平町には、大岡越前守旧邸跡があるが、街道から外れるため見学はしなかった。
1518藤川宿に近づく。
岡崎市天然記念物の藤川の松並木
吉良道との追分、右が東海道吉良道は参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらに海産物の搬入路として重要な脇街道出、塩の道としても利用された。
西の棒鼻から先が、藤川宿になる。戸数302戸、人口1,213人(うち男540、女673)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒。
東海道53次の制がなって宿駅をつくるにあたり、岡崎と赤坂とは4里7町の距離があるため、間に藤川宿をつくるにあたっては、東宝の山中地区から市場の部落を移転させ細長い宿駅をつくったという。江戸幕府は毎年8月1日に朝廷へ御馬を献上していた。広重は、この八朔御馬献上の行列が、天保3年(1832)、藤川宿の東の棒鼻に差し掛かった情景を描いている。献上馬2頭は御幣を立て、濃い葦毛と後ろは栗毛、また一行を出迎えているのは、藤川宿の本陣の者か、名主と思われる。このとき広重自身も願い出てこの行列に加わっていた。
本日はここまで。
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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