旧東海道を歩く 14日目(12/6) 蒲原~沼津

蒲原宿から、吉原宿、原宿を通り、沼津宿まで、明日の箱根を前に平坦な道を歩く。
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蒲原は神原とも書いた。蒲原の駅はもとは富士川の東岸にあったが、川の氾濫で早くに廃れて、富士川の西側に移る。この地は蒲原丘陵が北方から駿河湾に迫って急崖をなし(広重の図にもこの点偲ばれる)、その崖下の狭い海岸姿態に東西4キロにわたる細長い街が続いて、線状集落の形態をとっている。江戸時代の蒲原宿は、富士川があるため宿場として大いに繁盛した。 蒲原宿は、戸数509戸、人口2,480人(うち男1,251、女1,229)、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒から成る 0740蒲原宿を出立する。
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0757蒲原宿を離れるとすぐに、武田信玄によって落城した最後の蒲原城主・北条新三郎の墓案内碑がある
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0758一里塚跡を通りすぎる。日本橋まで38里。
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正面に富士を眺めながら
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旧東海道案内図
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0836岩渕一里塚を通りすぎる。日本橋まで37里
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相生町旧東海道から見る富士
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0846富士川に達する
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このあたりの富士は絶景
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0849富士川を渡る。
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富士川の渡しは、江戸時代には24文といわれ、渡船の際に船が水底に沈むかと危ぶむほど急で、船頭が力を合わせて櫓を漕いだという。 渡った場所の水神社境内にある富士川渡船跡と富士登山道道標 「富士川は天下に聞こえた急流で水量が多い。旅人も水神社で安全を祈った。
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0918橋下地区の道標と常夜燈
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0944鹿島の一里塚跡を通り過ぎる、お江戸まであと35里。
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1015吉原宿に入る。 吉原の地名の起こりは、古くは葦(よし)の生えた原から起こった葦原に、おめでたい吉の字をあてたものらしい。もともとは、富士川の船渡しを挟んで蒲原宿とともに、対向宿として発達したらしいが、2回の津波による富士川の水害によってこの地に移転している。 吉原宿は、戸数653戸、人口2,832人(うち男1,328、女1,502)、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠60軒から成る
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1040吉原宿を通り抜ける
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1108宿から1キロほどで広重も描いた有名な「左富士」を通り過ぎる
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広重は、中央に大きく左に曲がる街道に、馬子にひかせた子供を三人を乗せた後姿を描いている。当時は三面姿の荒神になぞらえ、この馬の乗り方を「三宝荒神」といった。三宝荒神についてはシーボルトもよく見たらしく江戸参府紀行の中で紹介している。 東海道を東から西に行くとき、富士は右側に見えている。 吉原宿は、水害により北側に新吉原として宿ごと移転し、街道がこの場所で北向きに付け替えられため、吉原宿に向かうこのあたりでは富士が左側に見える。 残念ながら本日の富士は雲をかぶっている。
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JR吉原駅前で昼食、 1200富士山をバックに記念撮影し、出立
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1210富士を眺めながら、原宿、沼津宿までの殆どまっすぐな道を15キロ余りをひたすら歩く 吉原から原の間が有名な田子の浦で、田子の浦は田籠(たご)とも田児(たご)とも書かれていて、かなり広い地域を指していたらしい。ここでは、山部宿祢赤人の歌が有名  田児之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺爾 雪波雰家留 (田子の浦 打ち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける) 沼津までの間、富士はだんだんと姿を変えていく
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1257東田子の浦の一里塚跡を越える。お江戸まで33里。
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しばらくして、現在のJR東田子の浦駅前の、吉原と原との間の宿・柏原宿を通り過ぎる。 1416原宿に入る
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原宿は、戸数398戸、人口1,939人(うち男957、女984)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒から成る。 原宿は、53次の宿のなかで最も近くに美しい富士の雄姿を眺める地として栄えた。 渡邊本陣跡
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白隠禅師誕生地碑 原は、「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と謳われる臨済宗中興の祖・白隠の里。
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1435原宿を離れ、沼津宿を目指す。 1507松長一里塚を通りすぎる。日本橋まで32里。
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1527藩領境を越え、沼津藩領地に入り、本日はここまで
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参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道
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