府中宿から、江尻宿、興津宿を通り、薩埵峠を越えて由比宿に入り、蒲原宿まで歩く。
いろんな意味で薩埵峠が楽しみなコース。
0820府中宿を出立、但し時間の都合で東静岡の先までは早駕籠に乗る。
従って、西見附から東見附の間の3.6キロある府中宿はゆっくり歩いていないため、西郷隆盛・山岡鉄舟会見所や、久能街道へ道などは今回は確認していない。
以下の図は府中(駿府)から伸びる街道で、参勤交代の大名は久能街道を通って東照宮にお参りした
西郷隆盛・山岡鉄舟会見所(以前の写真から)
0840静岡市駿河区と清水区との境辺りから歩く
草薙神社の参道わきを通り過ぎる。富士山が正面に顔を出している
0930東海道の説明版
1001追分羊羹と、志みづ道との追分の道標
1011江尻宿に入る
江尻宿は、戸数1,320戸、人口6,498人(うち男3,160、女3,338)、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒から成る
1018巴川を稚児橋にて渡る
過っての東海道は、今は清水銀座商店街を通る
江尻宿寺尾本陣跡
鍛治屋町説明板
この辺りは清水港が近い。徳川慶喜は江戸城開城のあと、水戸弘道館で謹慎していたが、慶応4年(1868)7月19日に水戸を出立し、21日に銚子港で乗船し23日に清水港に着く。夕方、府中(駿府)の宝台院に入り、謹慎生活に入った。
1040江尻宿を離れ興津宿に向かう
昨夜の雨で空気が洗われ空がきれい、富士山に期待しながら歩く。
1130座漁荘を通り過ぎる
キングメーカと云われた西園寺公望は、大正8年のパリ講和会議で全権の任を果たした後、軍部の台頭を抑えられず、晩年をこの座魚荘にて過ごし93歳で永眠した。
1132清見関跡と清見寺を通り過ぎる
古来詩歌によく詠われた清見関の跡はなく史上にその名を留めるだけであるが、関の跡は清見寺の山門下辺りと伝わる。
清見寺には立ち寄らなかったが、ここには明治20年に旧幕臣たちによって建立された咸臨丸殉難碑がある高さ3mの大きな碑面には榎本武揚による揮毫で「食人之食者死人之事」とある。「人の食を食む者は、人の事に死す」、つまり「徳川氏の食を食む者は、徳川氏のために死す」。明治23年に福沢諭吉がこの碑を見て、「痩我慢の説」を発し、勝海舟と榎本武揚の生き方を批判した。
清見寺を通り過ぎると、ここが興津宿の入り口で、宿は興津川まで続く。
興津は、北方に山を負い、南方は駿河湾に臨み、東端には興津川が流れている。その流れに沿って身延、甲州への街道も通じていて、興津宿は駿河・甲州の要衝として栄えた。
「興津」の名は、もともと海岸なので、沖の津から起こったとも、港(船着き場、津)として興った地から採ったともいわれる。
戸数316戸、人口1,668人(男809、女859)、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠44軒から成る広重の浮世絵は、背景に三保の松原を置き、興津川を馬と駕籠で渡る角力取りを描いている。
昼食を摂り、興津宿を出立
1236興津川を渡るとすぐに薩埵峠の案内板がある
薩埵峠は、高さ90mで三方は山、一方が崖下の海で天然の要害になる。眺望は絶景だが、急坂の難所だった。
峠を越えるには、薩埵地蔵道、上道、中道、下道の4道があるが、東海道制定の慶長年間から使われた中道を行く。
1237いよいよこれから、薩埵峠に向かう
墓地の中を通って行く
峠への道
1310頂上にて記念撮影
とりあえず、よく知られた図
富士山が顔を出してきたのでパチリ
1349峠を下り始め、由比宿へと向かう
1402薩埵峠下の山岡鉄舟ゆかりの家・望嶽亭藤屋
室町時代から続く家で、間宿の脇本陣でもあった。
望嶽亭藤屋と鉄舟との縁は以下の通り
鉄舟は、江戸開城の予備会談のため、海舟の書簡を持ち、西郷隆盛を駿府に訪ねる。
同行していた薩摩藩士益満は体調を崩し途中で別れている。
薩埵峠からは、清水、駿府の道順となるが、 薩埵峠に差し掛かった時に、西軍の先兵から誰何された。
益満がいないと一人で西軍の中を突破できないため、もと来た道を走って引き返す。
西軍の兵は発砲しながら追いかけてくる。
鉄舟は峠の登り口の望嶽亭の前まで逃げてきて、望嶽亭の戸をたたく。
そして開いた戸から転げ入って、
「徳川慶喜の名代で、駿府の大総督府を訪ねる者だが、官軍の兵に追われている。大事を成し遂げるためだ、是非とも御家に匿って欲しい。」と、土下座をして懇願する。
主人の松永七郎平は、事情を知り蔵屋敷に匿う。
松永は、懇意の清水の次郎長宛てに「駿府まで無事に送り届けてほしい」との紹介状を書き、
蔵座敷で漁師に変装した鉄舟を秘密の隠れ階段からすぐ裏の浜に脱出させ、船で清水へ送り届けた。
そして、これが鉄舟と清水の次郎長が知己となったそもそもの切っ掛けともなる。
但し、以上のエピソードは伝承されてきたが、それを裏付ける史料はない。
松永七郎平の妻かくは、この時33歳だったが、73歳のときに孫に嫁いできたそのに語り、その話をその55歳の時に18歳で嫁いできた貞世さんに受け継ぎ、今日に至っている。
また、山岡鉄太郎が明治15年に西郷と会談した経緯・内容を記した「西郷氏と応接之記」にも、望嶽亭藤屋と鉄舟との縁は全く触れられていない。
望嶽亭藤屋の前に一里塚の跡がある、江戸までは40里
1440由比駅にて休憩後、早駕籠にて移動。
由比宿の入り口の西木戸
由比宿は、戸数160戸、人口713人(男356、女351)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒から成る
由比本陣跡
本陣前の由比正雪生家跡
1512蒲原宿に到着、
蒲原宿入口近くの、志田邸を訪問し、併設の東海道町民生活歴史館にて展示を拝見。
館長・志田威さんから、東海道は53次ではなく57次との説明を受ける。
珍しい関所手形など貴重な資料を拝見する。
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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