神奈川宿の史跡めぐりをした際、神奈川台場跡を廻ってきた。
神奈川宿からは、旧東海道をはずれ、滝の川に沿って海に向かうとJR貨物の鉄橋に達する。
この左側(東側)の少し先の辺りに神奈川台場があった。
安政5年(1858)、幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結び、この条約に基づいて横浜が国際貿易港として、翌年の安政6年6月2日(陽暦1859年7月1日)、開港されることになった。
幕府は横浜港の警備のため神奈川宿沖に台場を造築することを決め、神奈川宿の警備担当の伊予松山藩に台場建設を命じた。台場建設にあたって、松山藩は勝海舟に相談し技術指導を受ける。
建設は安政6年(1859)7月から始まり、費用7万両を費して1年の突貫工事で、神奈川宿沖に人工島を造築し神奈川台場として翌年6月に完成させる。
神奈川台場は、神奈川宿の陸地とは人工島の両端側から2本の渡土手(東取渡り道と西取渡り道)とで繋がっていて、その間は船溜まりとして利用した特異な構造をしている。
人工島を造る際に、近くの熊野権現が祀られていた権現山を削り、その土砂で埋め立てを行った。確認はしていないが、渡土手は、土砂や石垣の石を運ぶために造った道ではないかと思われる。
神奈川地区センターの神奈川宿と台場のジオラマ
台場としての機能が必要でなくなると、大正末年から周辺の埋め立てが始まる。
今では、埋め立て地の敷地の転用も進み、当時の面影を見つけることが難しい状態だが、遺構が一部残されている。
台場そのものは、今ではほとんどがJR貨物東高嶋駅の構内になっており、周辺地区の一部に当時の台場の石垣が露出している場所がある。
まず、石垣の露出している神奈川区1丁目で、神奈川台場碑と石垣遺構を見学した。
石垣のそばには住宅地が迫り、僅かだが間知石(四角錐形の石)を用いた当時の石垣を確認することができる。
この神奈川台場碑のある場所は、台場の中心からは西南西にあたるが、碑のそばに案内板の東西南北の表示がおかしい。太陽の位置からすると、表示は間違っているようだ。
次に、近くの神奈川台場公園に行く。
西取渡り道の中ほどにあり、公園の入り口は船溜りに通じる水路があったらしい。こちらの案内板の東西南北の表示は正しい。
そのあと、台場公園から星野町へ向かう。
今は歩けない東取渡り道の辺り(写真水路の右側)を遠望し、
かなり遠回りをして、水路を渡る(写真の奥に見える橋を渡る)
星野町公園の露出した石垣を拝見してきた。
また、公園の隣に賃貸マンション「海舟」があり、マンション建設で発掘した石垣遺構を一階で展示しているが、展示場は閉まっていた。
マンション展示場を除く。左下に石垣遺構が見える
今回、石垣の遺構は十分に堪能できたのでよしとしたい。
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